アセアン経済共同体の現状と未来

アセアン経済共同体の現状と未来

世界的に存在感を増す東南アジアの10か国

東南アジア 下川裕治

アセアン経済共同体(AEC)が発足してから1年以上が過ぎた。実際にスタートしたら、やはり様々な問題点が噴出している。アセアン経済共同体は果たして成功するのか──。 その現状と未来を考えてみた。

アセアン経済共同体はEUを目指す
アセアンは一昨年、大きな節目を迎えた。2015年12月31日、アセアン経済共同体(AEC)が発足したのだ。

アセアン経済共同体は、加盟する10か国が、貿易の自由化や経済統合を通して経済成長を加速させることを目的にしている。

現在のアセアンは、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ブルネイ、カンボジア、ベトナム、ラオス、ミャンマーで構成されている。その人口は6億2000万人を超え、市場規模は約3兆円を超えるといわれる。この規模は世界的に見ても、存在感はある。

もっとも、域内の貿易の自由化や経済統合がうまくいっての話だが。

アセアンは1967年に発足した。「バンコク宣言」が発端である。発足時の加盟国は、タイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、フィリピンの5か国である。その後、ブルネイが加わったが、7か国目のベトナムが加盟したのは、1995年である。その間は28年。この年数が、アセアンの当初の性格を端的に表している。

この種の共同体のひな型は1957年に発足したヨーロッパ経済共同体(EEC)である。詳しくは追ってお話しすることになるが、アセアンのイメージにヨーロッパ経済共同体があったことは事実だ。

ヨーロッパ経済共同体のアイデアは、同体の2回にわたる世界大戦の反省のなかから生まれてきた。 戦争というものは、突き詰めていくと、経済に辿り着くという側面をもっている。ひとつの国の経済が悪化し、それを打開するために、他国への侵略をはじめるという構図である。人々は不況のなかで生活の苦しさを訴える。その不満を巧みに利用する政党が台頭していく。

「新しい領土を手に入れれば、不況から脱却できる……と」

太平洋戦争に突入した日本もそうだった。不況から脱却するために、広大な中国という領土という青写真が描かれ、人々はその未来に希望を託していくというシナリオである。そこには軍事力が伴うわけ だから、単純な経済活動ではとらえることはできないが、国民の支持を得るという面では、領土の拡大は蠱惑だった。その発想のなかで、世界は2回の大戦を経験してしまうのだ。大きな犠牲を強いた戦争は、終わってみれば焼野原を残しただけだった。戦争は何も生みはしない。残るのは荒廃した国土とずたずたになった人間関係だけだった。

2度と戦争を起こさない世界。戦後の苦しみにあえぐ人々は、その構築を急ぐ。それは健全な行動でもあった。

なぜ、戦争を起こしてしまったのか。突き詰めていくと、経済というものに出合う。国と国の経済格差がなかったら、戦争というものは起きないのではないか。

ヨーロッパ経済共同体が生まれた背景には、そんな戦争への反省があった。もちろん、戦争への自戒が、経済共同体を導くすべてではない。そこにはさまざまな動機がある。しかし経済の平準化は、共同体を導く大きな要素だった。

左傾化への危機感がアセアンを生み出した
ヨーロッパ経済共同体が発足してから60年がたった。そして昨年(2016年)、イギリスがEU(欧州連合)から脱退することになった。その国民投票の結果を見たとき、僕はひとつの言葉を思い浮かべていた。

「戦争の賞味期限」である。

60年という年月は、ひとつの世代を変える。戦争を体験した世代が減り、戦争の悲惨さを訴える声も薄れていく。

経済共同体というものは、それぞれの国に犠牲を強いる。貧しい国から、豊かな国へと人は移動していく。東欧の国から、多くの人々がイギリスに移り住むことになる。イギリスはそれを受け入れていくことが共同体の理念でもあった。経済の平準化とはそういうことだった。経済共同体というものは、それぞれの国に犠牲を強いる。貧しい国から、豊かな国へと人は移動していく。東欧の国から、多くの人々がイギリスに移り住むことになる。イギリスはそれを受け入れていくことが共同体の理念でもあった。経済の平準化とはそういうことだった。

しかしイギリスの若者は、自分たちの職を東欧からやってきた人たちが奪っていくようにも映る。自分たちの生活が苦しい一因は、彼らがイギリスにいるからだ……と。その発想を抑え込んでいくのが、戦争への反省だったのだが、そのむごさを肌で知っている世代がしだいに社会の中心からスピンアウトしていく。戦争経験者の死は、しだいに戦争の賞味期限が終わっていくことを示していた。イギリスのEUからの離脱は、その象徴でもあった。

アセアンは確かに、ヨーロッパ経済共同体を意識していた。しかしその背景にあったのは、もっときな臭い東南アジア事情だった。

第2次大戦後、東南アジアの国々は次々に左傾化していった。ベトナム、ミャンマー、カンボジア、ラオスで社会主義政党がその存在感を増していった。

アメリカは1964年にベトナムに介入をはじめる。日本人がイメージするベトナム戦争が激しさを増していった。そんなアメリカにとって、東南アジアの国々に樹立されていく社会主義政権は脅威に映った。当時、アメリカはこの動きをドミノ理論と呼んだ。ドミノが倒れていくように、次々と東南アジアが左傾化していくことを意味していた。

その動きに対抗するためにアセアンは発足したのだ。タイ、インドネシア、シンガポール、マレーシア、フィリピン。発足時の加盟国の顔ぶれをみれば明らかだった。その中心にいたのがタイだった。つまりアセアンとは、ヨーロッパ経済共同体をモデルにしていたとはいえ、それは表面的なことで、内実は反共連合だったのだ。

そのなかでタイは、アメリカのベトナム戦争支援基地の役割を担っていく。北爆に向かう戦闘機は、タイの空港から発進した。タイ国内にはいくつもの通信基地がつくられていった。

タイ国内の道路は、東南アジアのなかでいちばん立派だ。高速道路並みの道が地方に延びている。よく見ると、電柱が道路から離れて立っているところが多いことに気づく。有事の際には、道路が滑走路になるようにつくられたといわれる。ベトナム戦争に従軍する兵士の休息地もタイだった。バンコク市内には、そんなアメリカ兵向けのホテルがある。そのレストランは、椅子の背が高く、どこかアメリカの地方の安食堂を思わせる。パッポンやパタヤといった歓楽街も、アメリカ兵を集めて栄えていく。

水着姿の女性が、金属ポールを支えに踊るゴーゴーバーがあるのは、バンコクとフィリピンのマニラである。いや、沖縄の金武にもある。どこもベトナム戦争に従軍する兵士たち向けの店だった。

 (タイがこれだけ近代化した理由の一つはベトナム戦争にある)

タイ経済の発展を支えてきた王室
昨年10月13日、タイのプミポン国王が崩御した。国民に愛されていた国王だけに、国民のほとんどが黒い服装で身を包んだ。その光景は、ある種異様で、世界の話題になったが、プミポン国王の功績という面では、東南アジアのなかで西側社会の一員という地位を守り続け、アメリカからの膨大な援助を発展に結びつけていった点にあるといわれる。

もっともその評価は、やや過大という向きもある。実際、戦後のタイ王室は脆弱で、指導力はなかなか発揮できなかった。それがアメリカ寄りのタイの政治家が力をつけていった理由ともいわれる。

カンボジアとは対照的である。カンボジア国王だったシアヌークも、プミポン国王と同じように若くして国王になる。しかし血気盛んなシアヌークは、国王という地位に限界を感じとり、国王の座を退き、政治家に転身する。彼が率いた党は第一党になり、シアヌークは王政社会主義という政策をとっていく。これに対して、アメリカを後ろ盾にするロンノルが台頭。カンボジアは混乱していく。最後にはポル・ポト時代を迎えてしまうのだ。

あるカンボジア人は、カンボジアの発展を遅らせ、あまりにも多くの犠牲者を出してしまった一因はシアヌークにあるともいう。

ある意味、王室の弱さが、タイの発展を導いていったともいえるのだ。その後、プミポン国王は王室の復権を目指し、活動を開始していく。治水事業に力を注いでいったが、その時代とタイの経済発展が重なり、王室の人気は高まっていった。

反共連合としてのアセアンが社会主義国ベトナムを追い詰めた

 (ここ数年、タイはクーデターやデモを繰り返して政治的には混乱していたが、それでも最終的な分裂が避けられたのは、プミポン国王の存在があったからである)

アセアンはベトナム戦争時代、その後方支援の役割を担っていったが、その存在が増していくのは、むしろベトナム戦争以降だった。

ベトナム戦争は、アメリカの敗退という文脈で語られることが多いが、専門家の言葉を借りれば、「ベトナムが負けなかった」戦争ということになる。その背後には、「ベトナムは勝ったわけではない」というニュアンスが含まれている。

ベトナム軍は、アメリカが撤退した後、カンボジアに侵攻する。これに抗議するアセアンは、ベトナムに対して徹底的な経済制裁を行なっていく。

ベトナム人、とくに南側の人々の多くは、「この経済制裁はきつかった」という。ある人は、「ベトナム戦争時代より厳しかった」と。食料は不足し、国は未曾有のインフレに襲われる。隠していた金を換えて船をチャーターし、国外脱出を企てる人々が増大した。ボートピープルである。その原因をベトナム戦争に求める人もいるが、ベトナム人の多くは、アセアンの経済制裁をまず挙げる。反共連合であるアセアンは、ベトナムに対して徹底した包囲網を敷いていったのだ。

その後の変遷はあるが、1995年にベトナムがアセアンに加わることは、大きな変節点だった。その後、1997年にはミャンマーとラオス、1999年にはカンボジアが加盟する。かつての社会主義国が加わっていくことで、アセアンは大きく変わっていくのだ。

そこにはかつての社会主義国の変質もあった。ベトナムは破綻寸前の経済を立て直すためにドイモイ政策をとる。自由主義の論理をとり込んでいくしかなかったのだ。ラオスやカンボジアも路線を変更させていく。

中国に対抗するためのアセアン
たしかにかつての社会主義国の変化も重要な要素だが、もうひとつの圧力がアセアンに加わりはじめていた。

中国だった。

大躍進運動、そして文化大革命で疲弊した中国は、開放政策へと舵を切っていく。そして急激な経済成長の軌跡を描きはじめていくのだ。

東南アジア諸国にしたら、中国の台頭は脅威だった。膨大な人口と資源……これらが動きはじめると、東南アジア一国ではとても太刀打ちできなかった。そこからアセアンは、経済共同体へとその色合いを変えていくわけだ。

その路線が、やがて、一昨年に発足したアセアン経済共同体へと結びついていくことになる。

中国に対抗していくために、東南アジア諸国がひとつの経済圏をつくっていく──という発想である。

アセアン経済圏構想にはさまざま内容がある。そのひとつは、アジアハイウェイの整備だった。国連の指導のもとで、道路網を整備し、流通をスムーズに行なおうというプランだ。

その結果、アセアン内には東西経済回廊、南北経済回廊などができあがっていく。なかでも東西経済回廊はその中心的な役割を果たすといわれている。

東西経済回廊の西の起点はベトナムのダナンである。そこから道は西に延び、ラオスを経てタイに入る。もうひとつの東西経済回廊は、ベトナムのホーチミンからカンボジアを経てタイに入るルートである。この途中、メコン川には、2015年、つばさ橋とも呼ばれるネアックルン橋が完成した。これまでフェリーしかなかったルートに橋ができたことで、ベトナムのホーチミンとカンボジアのプノンペンは数段近くなった。

タイに入った東西経済回廊はさらに西に進んでいく。ミャンマー国境に向かい、最後はアンダマン海に面したダウェイに達する。

東アジアから届いた物資はダナンに陸揚げされ、東西経済回廊を通ってカンボジア、ラオス、タイへと流れていく。ヨーロッパやインド方面から来た物資は、ダウェイで陸揚げされ、タイ、そこから西の国へと流通していく構想である。ダナンの港はかなり整備されてきた。ダウェイ港もタイ系の企業によって整備が進んでいるという。

 (整備中のアジアハイウェイだが、ミャンマー側の舗装はまだまだ進んでいない)

アジアハイウェイを実際に走ってみた

アセアン経済共同体プランのなかでは重要な経済回廊構想。果たして本当に整備が進んでいうのだろうか。実際にそのルートを通ってみることにした。ダナンからタイへの道はかなり整ってきて いると聞いていた。タイから西のダウェイまでの道を進んでみることにした。

バンコクからは西へ向かう。カンチャナブリから国境まで……。カンチャナブリのバスターミナルで訊くと、ロットゥーという乗り合いバンが1日5便ほど走っていた。昼頃の便に乗った。乗客の大半はミャンマー人だった。

国境の東側、つまりタイ側の道はよかった。立派な舗装道路が延びていた。ときおりアジアハイウェイの「AH」という表示も見える。

タイ側のイミグレーションから6キロほど進むとミャンマー側のイミグレーションだった。しかし舗装されているのはここまでだった。

イミグレーション周辺には何台ものショベルカーが斜面の地ならしを進めていた。やがて整備されるのかもしれないが、まだまだ先のように思える。そこからの道は、悪路だった。未舗装路が続く。ミャンマー人によると、前に比べれば道幅が広くなったという。しかし老朽化した橋は幅も狭く、大型トラックなどとても通ることができないレベルだった。それどころか、一般車両の通行すら危うかった。

僕は相乗りのタクシーに乗っていたのだが、ひとつの橋の手前で全員が降り、車だけが先に進む状態だった。こういう橋はひとつだけだったが、国境からダウェイへの山道には、長さはないものの、小さな橋が数十はあった。これらも今後、整備していかなくてはならない。それはなかなか大変な事業に映った。工事を請け負っているのは、タイ系のイタリアン・タイだった。タイでは有名なデベロッパーだが、この悪路を整備していくにはかなりの日数が必要だろう。ダウェイ港の整備もあまり進んでいなかった。

アセアン経済共同体構想はどこか道半ばの感がある。さまざまなインフラが整備されていくには、かなりの年月が必要に思えてくる。

 (ミャンマー側のインフラが整備されるまでには、かなりの時間がかかりそうだ)

アセアン経済共同体が抱える問題点
ここにきて、アセアン内の不協和音も届くようになった。東西経済回廊構想にしても、道路が整備されていくと同時に、貿易の自由化、つまり関税の軽減や撤廃が条件である。例えばカンボジアで部品をつくり、それをタイに運んで組み立てる。そのとき、タイとカンボジアの間で高額な関税が設定されれば、共同体構想は青写真のままで終わってしまう。しかし関税を低くすると、タイ側に有利な条件に傾いていってしまう。それをカンボジアが飲むか……こういった問題が、アセアン各国間に存在するのだ。

その不協和音の背後には、中国経済の減速がある。たしかに以前の中国経済は脅威だった。しかし最近は中国内の問題が噴出し、「中国をそれほど恐れる必要がないのではないか」という意識が生まれつつある。それはアセアン諸国の結束力を緩めていく結果を生む。昨年7月のアセアン外相会議は、その現実を露呈したとする見る向きもある。この会議では、南沙諸島をめぐる領有権問題が議題になった。しかし中国の実効支配に抗議する声明はまとまらなかった。終始カンボジアが反対の立場を主張したためだ。

アセアン経済共同体はいま、難しい局面を迎えている。

【下川裕治 しもかわ・ゆうじ】
作家。元新聞記者。主な著作に、『本社はわかってくれない━ 東南アジア駐在員はつらいよ』(講談社現代新書)、『12 万円で世界を歩く』(朝日文庫)、『バンコク探険』(双葉文庫)、『海外路上観察学 ぼくの地球歩きノート』(徳間書店)、『ホテルバンコクにようこそ』(双葉文庫)、『バンコクに惑う』(双葉文庫)、『アジアの誘惑』(講談社文庫)、『アジアの弟子』(幻冬舎文庫)、『バンコク子連れ留学』(徳間文庫)、『アジアの居場所』(主婦の友社)、『新・バンコク探検』(双葉文庫)、『タイ語でタイ化』(双葉文庫)、『タイ語の本音』(双葉文庫)、『アジアの人』 ( 講談社文庫)、『バンコク迷走』(双葉文庫)、『「生きづらい日本人」を捨てる』(光文社新書)、『週末アジアでちょっと幸せ』(朝日文庫)、『週末バンコクでちょっと脱力』(朝日文庫)等がある。

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