インドネシア大統領も通った老舗の日本料理店

ジャカルタで親子2代が紡ぐ故郷の味

インドネシア大統領も通った老舗の日本料理店

海外駐在、海外赴任で日本人が直面するのは、恋しい、そして懐かしい日本の味、故郷の味である。苦労して入手した食材で料理するのもいいが、やはりあれこれと迷いながらメニューで選んだ「食べたい日本食」を口にした時の「満足感」「幸福感」は誰しも同じもの。
インドネシアの首都ジャカルタには現在、多彩な日本食レトランがあり、日本を味わえる。
そんな中、1969年開業で約半世紀続く老舗の日本食屋「菊川」はかつて日本食レストランが少ない時代から、故郷の味を求めて、外交官、商社マン、長期旅行者、新聞社特派員などが通い詰める一方、
スカルノ初代大統領やデヴィ夫人、スバルジョ初代外相、メガワティ元大統領、そして高松宮様などの要人も訪れた「隠れた名店」である。
「菊川」の謹厳実直な親子2代の繁盛物語をお届けする。

 

インドネシアで日本の味を提供する

インドネシアの首都ジャカルタ中心部のチキニは若者やメディア関係者、芸能関係者が集まる洒落たカフェや伝統料理のガドガド専門店、アチェ料理の店、そしてチキニ市場周辺には買い出しに訪れる市民を当て込んだ大衆食堂が並ぶ下町の雰囲気を色濃く残した街だ。

チキニ通りに面した一角を占める「イスマイル・マルズキ公園」は、映画館、プラネタリウム、劇場、古本屋、展覧会場、コンサート会場などがあり、インドネシアの伝統文化に加え、若者の現代文化の発信の場として愛され続けている。深夜まで公園内にはダンスを練習する団体、文化・芸術論を議論する若者などであふれ、詩人ヨセ・リザル・マヌア氏の古本屋は芸術家のサロンと化している。

そのチキニのメインストリートからチキニ4通りを西に入った場所に日本料理屋「菊川」はある。

1969年の開店以来、変わらない場所で変わらない日本の味を、故郷の日本料理を懐かしむ在住日本人、そして日本食を愛するインドネシア人に提供し続けている。

店は城の石垣をイメージした塀に囲まれた駐車場とその奥に日本風の玄関、池を備えた木造平屋で歴史を感じさせるたたずまいとなっている。駐車場から店内玄関への通路は短い橋になっており、橋下の池には鯉も泳いでいる。これは食事に訪れたインドネシア人がこの橋から先は「日本」であり、日本の味、日本の雰囲気、日本のおもてなしを堪能できるような作りとなっている。

「もともとはオランダ植民地時代に建てられた家屋でたぶん築100年ぐらいじゃないですか。太平洋戦争後は近くにあった官庁で働く役人などが住む長期滞在の下宿だったようです」と菊川の歴史を振り返るのはトミー・パーツさん=日本名、菊池武秀さん=(66)で、父の菊地輝武さんから「菊川」を引き継いだ2代目経営者である。

在住の日本人にとってオヤジ的存在だった

戦後約25年、インドネシアに日本企業、日本人駐在員が増え始めた当時、ジャカルタでちゃんとした日本料理が食べられるのは1969年開店の「菊川」と1970年に開店した「よしこ」の2軒しかなかったという。「よしこ」は大統領官邸に近い国立博物館裏手にあり、その後クニンガンのホテル内に移転したが、初代経営者の「よしこさん」が亡くなり、いつの間にか閉店した。

菊池さんとよしこさんは年末年始には花を贈りあう「良き仲間」で、菊池さんがそうした関係でつながっていたのは後にも先にも「よしこ」だけだったという。

「よしこ」が閉店したため、「菊川」は現在も営業を続ける「間違いなくジャカルタで最も老舗の日本食レストラン」であり、現在も変わらない味で多くの人の舌を楽しませている。トミーさんの父で初代の菊池輝武さんは「日本人もそうだが、インドネシア人のお客さんを大切にする」が口癖で、ランチタイムにはチキニ周辺で働くインドネシア人で連日ほぼ満席状態になる。

菊池輝武さんの時代には日本食が食べられる上に寛げ、何時間も長居しても文句も言われない店が他になかったことから、日本の報道各社の特派員にとって格好のたまり場だったという。

懇意にしている毎日新聞社のK記者が急な出張になったが、銀行が閉まっている時間帯で先立つものがなくて困窮していた時、「困ったときはなんでも相談するように」と言われていた「菊川」に飛び込み、「オヤジさん、すまんが金貸してくれ」と懇願すると、「仕事最優先だ。返すのはいつでもいい。すぐに飛び立て」と相当額をポンと渡してくれたというエピソードを、オヤジさん、K記者の双方から聞いたことがある。

思い起こせば、筆者(大塚)もジャカルタ特派員時代(1994年~2000年)には「菊川」、そしてオヤジさんには公私ともどもお世話になった。

ふらっと食事に行けば、オヤジさんの昔話しが始まるのだが、これがまたすごく面白くて興味深く、インドネシア現代史の隠れた一面を学ぶことができた。

インドネシア建国の父として現在もインドネシア国民から尊敬と愛情も集めるスカルノ初代大統領とオヤジさんは懇意で、プライベートでいろいろと相談に乗ったという。さらにスカルノ大統領夫人となったデヴィ・スカルノさんは「菊川」の常連で、デヴィ夫人の記者会見の開催場所になったり、裏の個室で日本商社員たちとよく麻雀をしたりしていた、というようなエピソードが次から次へと飛び出してくるのだから、時間が過ぎるのも忘れて聞き入ったものだった。

時代は変わり、スカルノ大統領の長女であるメガワティ・スカルノプトリさんはインドネシア第5代の大統領になった。メガワティさんも日本食が大好きで、大統領就任前の野党「闘争民主党(PDIP)」の党首時代から「菊川」でよく食事をした。

メガワティさんが来店すると、オヤジさんが奥にあった個室に案内し、あれこれと昔話から政局の話し、共通の知人の話しで絶えず盛り上がっていた。

メガワティさんが食べるのは定食で、特に天ぷら、すき焼きの野菜、豆腐が好物だった。口にしない刺身、漬物や多すぎるご飯などは同席した筆者に「食べろ」とばかり渡す。この様子を見つめるオヤジさんはニコニコと笑顔で「いや、実に微笑ましい光景だ」と感心してくれたのを今でも鮮明に記憶している。

軍属としてインドネシアに上陸

オヤジさんこと菊池輝武さんは1918年(大正7年)佐賀県唐津市に生まれ、徴兵後は満州へ。除隊後に台湾に渡り、そこで「ジャワに行かんか」と言われ、「どこにいても同じだから、ああ行きますよ」と応えたのがインドネシアに渡るきっかけになったと生前の雑誌のインタビューに菊池さんは話している。

そして1942年3月2日に軍属として初めてインドネシア・ジャカルタの土を踏んだ。3月10日には陸軍旅団司令部のあったバンドンに移動。その時は人生の大半をこの地で過ごすことになるとは思わなかったことだろう。

戦時中の菊池さんは、従軍作家の小野佐世男、詩人の大木惇夫、評論家の大矢壮一、活弁家の松井翠声、歌手の藤山一郎などと親交があったという。

1944年にバンドン近郊のチマヒの工場で事務員をしていたスラウェシ島北部マナド出身の女性、アメリア・パアトさんを見染めて結婚したことで、生涯インドネシアと関わることが運命となった。

太平洋戦争終戦後の1946年に一度日本に帰国し、料理が得意なアメリアさんのためにインドネシア料理店の経営に乗り出した。当初は東京の材木町、その後六本木7丁目に移したレストランは、当時日本で流行していたインドネシアの歌曲にちなんで「ブンガワンソロ」と名付けられた。仕事、旅行でインドネシアを訪れたことのある日本人に加えて戦争中インドネシアに進駐した元兵士にも人気の店だったという。

そんなころ、インドネシアで駐在員たちが寛げる場所を作らないかとの誘いを受け、数年かけて現地ジャカルタの治安状況などの下見、周到な準備を経て、1969年4月21日の開店に漕ぎつけたのだった。

営業開始は妻の誕生日という愛妻家

開店の日は奥さんアメリアさんの誕生日であり、インドネシア女性解放の先駆者とされるカルティニの誕生日でもあった。菊池さんの奥さんへの愛情が開店日にも表れていた。

「菊川」という店名は苗字の「菊池」では堅苦しいと思案、六本木の店「ブンガワン・ソロ(ソロ川)」にちなんで「菊川」とした。以前雑誌のインタビューで菊池さんは「川は水がちょろちょろ絶えることなく流れる。菊川もちょろちょろと流れていくだろうという思いを込めた」と語っている。

「菊川」の母屋切妻屋根の「妻」に当たる「矢切り」には、見えにくいが、竹で菊の花とと川のデザインが描かれ、「菊川」のシンボルとなっている。2代目のトミーさんによると相当昔からあるシンボルだという。

菊池さんとアメリアさんの間には3人の男の子供がいる。長男ロナルド・パーツ(武則)さん、次男リチャード・パーツ(文武)さん、そして三男のトミーさんだ。長男と次男は東京で生活、トミーさんはジャカルタ市内で旅行代理店業を営んでいた。

菊池さんはインドネシア国籍を取得しており、トミーさんも18歳の時に、日本、インドネシアいずれかの国籍を選択することになり、インドネシア国籍を選んだ。1998年頃のアジア通貨危機を契機に旅行代理店を「菊川」の玄関の横に新たに増設した事務所に移転。

「自然な流れでいずれは菊川を継ぐようになった」(トミーさん)というが、菊池さんは片時も煙草を離さないヘビースモーカーながら、元気で矍鑠(かくしゃく)として、いつも店に顔を出していた。

「父は80歳を過ぎたころから自分で身辺整理を始めていたようです。何事も早め早めに準備する性格の父らしいです。そして無宗教のままで死んだら葬儀などで困ることになるだろうという気遣いから、80歳を過ぎてから洗礼を受けてカトリック教徒になりました。洗礼名はアントニオです」

トミーさんによると、菊池さんは自宅、店の奥にあった休憩の部屋、全て机の中まできれいに整理してあったという。

筆者は2000年に任期を終えて日本に帰国後も少なくとも年に1度はジャカルタを訪れる機会があり、必ず「菊川」に行き、80歳を超えたオヤジさんを尋ねた。昔話しに花を咲かせて、いざ辞去しようとすると、オヤジさんは筆者の両手を包み込むように握り、「今回が最後になるかもしれないからね。いろいろありがとう」と毎回話すようになった。

「何を言っているのですか。また来ますよ」という筆者の返事のように何度も再会して、そしてまた何度も「最後の別れ」をして年月は流れていった。

だが、2011年10月9日、菊池さんの訃報が日本に届き、「前回の別れが本当に最後になってしまった」。

集まり散じて人は変われど

オヤジさんは生前「墓も要らないから火葬して遺灰はインドネシアの海にばら撒いてくれ。そうすれば故郷佐賀の有明海で会うと約束した友達たちと再会できる」と話していたそうで、トミーさんら遺族は菊池さんの遺灰をスンダ海に流した。

オヤジさんの一番の好物は故郷佐賀県の郷土の食べ物で「日本5大珍味」の一つと言われている「松浦漬」だったという。「松浦漬」はクジラの上アゴ付近の軟骨を刻んで水にさらして脱脂、その後、酒粕に漬けたもので缶詰として流通しているため、インドネシアでも食べることが可能だった。

菊池さんを長年支えてきた愛妻のアメリアさんは2017年、亡くなった。年齢は菊池さんと同じ93歳だった。

曲がったことが大嫌いで、真実一路のような生き方を貫いたオヤジさんはインドネシアという異国での生活の真髄として「慌てず、焦らず、当てにせず、しかして飽きずに諦めずに」を日本人に伝授していた。

トミーさんの代に変わった「菊川」だが、味も雰囲気も何も先代のオヤジさんの時代と変わっていない。店内は隅々まで清掃が行き届き、トイレは常にピカピカに磨かれている。トミーさんは「父がいつも言っていた、インドネシア人のお客さんを大切にして、微力ながら食の文化を通じて日本食をインドネシア人に伝えていきたい」と日頃の心がけを話す。

「日本食レストランというより、うちは日本食屋、日本食堂という方が似合っています」と謙遜するトミーさんは特別なことがない限り、店に顔を出してはお客さんを迎えている。

「菊川」には名物のウエイトレスがいた。奥さんのアメリアさんがスラウェシ島北部のマナドの出身だったこともあり、従業員の女性はマナド出身者が多かった。インドネシアではマナドは「美人」が多いことで知られている。あだ名がドリフターズの加藤茶にちなんで「カトウチェ」と呼ばれたその女性はお客の好み、注文する品を全て記憶しているという「菊川の生き字引でした」(トミーさん)。その

「カトウチェ」もオヤジさんの晩年に鬼籍に入った。

菊池さんの晩年に昔「菊川」に通い詰めた外交官やビジネスマン、記者たちが懐かしくて尋ねてくることが多かったが、トミーさんの代になってからは「昔父がよくお世話になりました」とそうした人たちの子供が顔を出してくれ、それがうれしいという。中には1970年代に通った人の子供が引き継ぎ、その子供が結婚してその子供、孫が通ってくれる3代のごひいきもいるという。それは日本人に限らず、インドネシア人もそうだというからいかに「菊川」の味を求める思いが世代を超えて脈々とつながっていることの証と言えるだろう。

 

お得感一杯の菊セットが大好評

8月某日、ランチタイムの「菊川」には美味しそうに天ぷらそばを、箸を上手に使ってすするインドネシア人男性2人、初めての日本食挑戦なのか、店員にメニューの詳しい説明を求める若い男女。そして、イスラム教のジルバッブという頭巾で頭を覆った3人の若いインドネシア人女性。

聞けば1人が「菊川」のファンで、初めてという2人を誘ってきたという。トミーさんお薦めの人気メニュー「菊セット」を美味しいそうに食べていた。

「菊川の日本食はとても美味しい。そして値段が私たちでも払えるのがうれしい」と満足げに話す。

多くのインドネシア人が注文する「菊セット」はサーモンの刺身、天ぷら(エビ2本、なす、さつま芋、インゲン豆、大葉)、焼き鳥2本、すき焼き(牛肉、白菜、しらたき、豆腐、春菊、卵、ネギ)これに醤油、天つゆに白ご飯とわかめの味噌汁、デザートのスイカが付く。デザート以外はお盆に乗って一度に配膳されるため、お盆の上は多彩な日本食で満員状態となる。お箸が不慣れなインドネシア人のためにとスプーンもお盆には用意されており、「菊川」の細やかな心遣いがここにもみられる。

「菊セット」は税別で10万8000ルピア(約860円)という値段設定でお得感はたっぷりだが、これで商売になるのかと心配になる。

「昔は10万ルピアを超えるメニューはなかったのですが」とトミーさんは申し訳なさそうに話す。

「菊川」のメニューではビーフ、ビーフカツ、チキン、チキンカツ、エビとバリエーションが豊富なカレーも人気である(税抜きで7万1000ルピアから9万8000ルピアの範囲)。

メニューには「チャコ寿司」という正体不明なものもある。

「サーモンは好きだけど、生の刺身で食べるのに抵抗があるというインドネシア人のためのメニューです。サーモンを炙ったお寿司で、チャコールグリルのチャコです」(トミーさん)とメニューの面でも

インドネシア人への細やかな心遣いが感じられる。

 

店自体がインドネシア現代史の証人

オヤジさんの代から「菊川」は日系の新聞やミニコミ誌、フリーペーパー、インターネットのグルメサイト、などで一切の宣伝をしない方針だ。したがって、一部の日本人の間では「隠れ家的存在」として密かに伝えられていた。

しかし今やネット時代、インターネットで「ジャカルタ 菊川」をキーワードに検索すれば多くの店舗情報、感想、推薦が次々とヒットする。なんと動画投稿サイトの「You Tube」にも「菊川」がアップされている。

全てが「菊川」の常連、ファンによる他薦の情報であり、いかに多くのそして古くからの固定客、常連、ファンによって「菊川」が愛されているかが分かる。

ジャカルタ市内にはファイブスターの高級ホテルに構える日本食レストランや日本から直輸入を売りにした高級割烹、すし店などが多く存在している。ランチで1万円近くする価格を求めるところもある中で、確かに「菊川」の提供する日本食はもはや例外かもしれない。

しかし、ここまで日本人と同時にインドネシア人に愛されている日本食レストランは他にジャカルタにはない。それが代替わりや閉店、廃業、撤退が目まぐるしいジャカルタの日本飲食業の激しい「生存競争」の中でも半世紀近く生き残っている「菊川」の最大の魅力であり、強みであると言えるだろう。

もっとも、謙虚なトミーさんなら「菊川は他店と競争できるような店ではありません」と言うに間違いない。

「菊川」の客席の周囲には浮世絵が描かれた飾りが随所に配置され、のれんや障子も作られ、日本情緒を醸し出している。中でも一番目立つのが奥の白壁に飾られている大きな絵だ。桜を描いた屏風絵で、相当に年季が入っている。

「これだけは開店したときからあるものです」とトミーさんが言うからには、半世紀近い間、菊池さん親子2代に渡る「菊川」の歩みをじっと静かに、温かく見守ってきた歴史の証しであることは間違いない。

この桜を凝視していると、元気な頃のオヤジさん、オヤジさんから聞いたインドネシア現代史の裏話しの数々、そして、父スカルノ大統領とのエピソードを熱心に聞いていた娘のメガワティさんなどの場面が鮮やかに蘇ってくる。だから筆者は「菊川」で食事をするときは可能な限りこの「桜」と対話できる席に座ることにしている。

 


大塚智彦(おおつか・ともひこ)
ジャーナリスト

Pan Asia News所属。毎日新聞社ジャカルタ特派員、産経新聞社シンガポール特派員などを経て、2014年からPan Asia Newsの記者兼カメラマンとして東南アジアを中心に取材活動を続けている。現在、インドネシアの首都ジャカルタに在住。著書に『アジアの中の自衛隊』(東洋経済新報社)、「ジャカルタ報道2000日──民主国家への道」(小学館)がある。

 

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