タイ人エリートの作り方

バンコクの日系企業で働く

エリートと称される人たち──。金と地位を持ち、容姿も兼ね備え、と、いわゆる全てを「持っている」人たちを指すわけであるが、ここタイにもエリートが厳然と存在し、人口比率でいうと、10%満たないであろう彼らが国全体を牽引しているのも、また事実である。某国お得意の「民主主義」の御旗の下、これらエリートの存在を否定する動きが見られる昨今であるが、私見としては、これら「差別」(筆者はこれを区別と呼ぶ)は公然と行われるべきであり、たとえば、学校教育の場においても、一部のエリートを優遇すべき、とさえ考えている。もちろん、この意見に賛否があるのは承知しているが、その理由の一端となっているのが、ここで紹介する彼のような「猛烈なパッション」を目の当たりにしているからに他ならない。

日本語を学んだ専門学校で人生の師に出会う

──こんにちは。今月は日本出張、月末にはアメリカ出張とご多忙の中お時間をいただいき、ありがとうございます。本日は「スーパー・ビジネスマン」であるウイ(仮名)さんの現在の姿が形成される過程を追っていきたいと思っておりますが、まずは日本との出会いについて聞かせてください。 

いやいや、まだまだ僕には恐れ多い称号ですが(笑)。僕が日本語の学習をスタートしたのは高校1年の時です。タイにおいて、親が教育熱心な家庭の子供はこのくらいの歳から学校教育の他に専門学校へ通うのですが、僕の生まれ育った故郷では、その専門学校が1校しかなく、そこでは簿記か日本語を選択できることになっていました。

 

周りの友人たちは、「将来役に立ちそうだから」と、こぞって簿記のほうを選択していましたが、何か他と違ったことをやりたいと常日頃考えていた僕は迷わず日本語を選択しました。その学校に、会社を定年退職旅行でタイに来られ、その後ボランティアとして働いておられたある日本人の男性がいたのですが、この人との出会いが僕の後の人生に大きな影響を及ぼし、今でも人生の師としてお付き合いさせていただいております。

 

そんな良い出会いもあり、どんどん日本語の魅力に引き込まれ、またどんどん日本のことを知りたい、という思いが高じていき、大学で引き続き日本語を学習することになるわけです。

 

──なるほど。それで私立の名門、ランシット大学の日本語学科に進学することになるわけですね。 

はい。大学の日本語学科としては定評があったのでここを選択したのですが、入ってみると学生たちのモチベーションは様々で、趣味の延長のようなノリでいる人たちも多くいましたが、僕は常に、「将来、ビジネスのツールとして活用する」という明確な目標を持って学習に取り組んでいました。そして、2年 生の時に初の日本旅行のチャンスに恵ま れ、親戚が住んでいた栃木県に1か月半ほど 滞在したのですが、そこで電流が走るほどの カルチャー・ショックを受けました。この国、 スゴイ! と。まあ、バンコクですらほとん ど知らなかった当時の僕には刺激が強すぎま したけどね(笑)。でも、そこから「この国で 暮らしてみたい。この国で仕事がしたい」と いう具体的な目標ができ、学習にも熱を帯び ていきました。そして、その翌年、念願の日 本留学の夢が叶ったわけです。

──そうですか。でも、そこに至るまでは大変な努力があったんでしょう? ランシット 大初の奨学金留学生で、なおかつ唯一の奨学 生だったんですよね? 

ええ、おかげさまで。もちろん、ラッキーな面もありましたけど。特に面談の際、日本への想いを熱く語ったのが評価されたのかな、って思います。

 

──留学先は、大阪外語大学ですよね? 大阪での生活はどうでしたか? 

それはもう、とても楽しい日々でした(笑)。その当時は東京のことは知らなかったので比較はできませんでしたが、大阪の雰囲気はタイの感覚に近く、外国人にとってとても暮らしやすい街のように感じました。奨学生だったので、残念ながらアルバイトはすることができず、日本人との交流が多くあった、とは言えませんが、それでも学内での研究などで他の学生との交流を積極的に行ない、あっと言う間に1年が過ぎてしまった印象です。

 

最初に就職した日系企業で鬱になって退職

──多くの貴重な経験を積み、卒業。就職することになるわけですが、最初の会社は、やはり日系?

はい。某大手自動車メーカーの子会社です。500人くらいの規模の工場でしたが、通訳として採用されました。そこで、ちょっとした事件がありまして……。

 

──意気揚々とデビューを果たしたせっかくの会社で何があったんですか!? 

実は、わずか半年で退社してしまったんです……。少し鬱のような状態になってしまいまして……。理由は、期待されること=いただいていた給料と当時の能力とのギャップに大いに苦しみまして。先輩社員や他の社員の方に対して、とても申し訳ない気持ちになりました。

 

──そうだったんですか! ある意味、人生初の挫折となったわけですね。ちなみに、聞きづらいんですが、新卒でお給料はいくらも らっていたんですか? 

3万3000バーツです。10 年ほど前のことですし、かなり良い額のサラリーだったと思います。

──それは結構な額ですね! プレッシャーに感じるのも分かります。その後はどうしたんですか?

確かに1度は逃げ出してしまったような形になりましたが、情熱はまったく失ってなかったので、すぐに再就活を行ない、ほどなく、新しい会社が決まりました。タイ・ローカルの会社で、社員が4000人ほどの規模でした。ここでは、先輩社員に日本人の方がいて、この方も日本の会社を定年退職後、タイに移住されてきた方なんですが、ビジネス経験が大変豊富で、ここでの1年間でビジネスマンとしての基礎を学んだように感じています。

 

──なるほど。でも、ここも1年あまりで退社ですよね(笑)。やはり、タイの人にとっては会社を代えるのはキャリアアップ、という考え方なのかな?

いえ、私自身に転職が良いものという考えは決してなく、むしろ少しでも長くお世話になった会社に恩返しをしたい、と考えているのですが、「1度きりの人生、チャンスは無駄にしちゃダメだ!」という上司の強い後押しもあり、決断しました。

 

──そうですか。そしてここで大きなキャリアアップ、某大手自動車メーカーのタイ支社への就職が決まるわけですね。採用試験がとてもハードだったとか?

ええ。朝早くから始まり、各種筆記試験、 面談も数回、と丸1日。くたくたになったの を覚えています。競争率も非常に高く、自分 でも受かったのが信じられないほどですが、 面談の際、「とにかく会社に貢献したいんで す! それも通訳だけではなく !! 通訳のみ での採用であったなら、私はお断りします!」 とアピールしたのが利いたのかもしれませ ん。念願叶い、デザイン研究所のスタッフと して採用され、もちろん、通訳も行ないまし たが、製造過程すべての工程を勉強すること ができ、大変有意義なものでした。

 

ここでの経験が現在に至るまで僕のビジネスマンとしてのコアな部分となっていると思っています。ここでは、いわゆる「日本式」のビジネス・マインドを学びました。それは、日本のビジネス・フィールドにおいては、結果からそこに至る過程を「ホウ・レン・ソウ」という手法を使い徹底的に洗い出し、帰納したものをルール化し、「カイゼン」へと止揚する、ということ。僕の考察ですが、それと比べて、タイのやり方は、結果至上主義、結論・結果がある程度のところへ収まりさえすれば、その過程はさほど重要なものではない、と考える習慣にあると思います。これは、その後の発展において大きな差となって現れるのではないでしょうか。

 

また、本当の意味での責任感も芽生えました。日本人スタッフとタイ人スタッフの間に立つ立場が多かったわけですが、コミュニケーションとは、言葉だけで済むものではない、というのを強く感じました。もちろん、潤滑油としての苦悩も大いに経験しました。そこで学んだのが、双方の意見や主張が対立した際、どちらか一方に肩入れするのではなく、双方の立場を慮りながら、時には意訳したり、主旨が変わらない程度に自らの意見を加味したり、とにかく組織がより良く発展するにはどうすれば良いか、というのを常に念頭に入れ行動しました。自画自賛ではないですが、コミュニケーション・スキルはこの時の経験で格段に向上したと思っています。

 

何の当てもなかったが、日本移住を決断

──そんな順調に推移していたビジネスマン生活にこのとき大きな転機が訪れるんですよね?

はい……。正直、会社での業務には何の不満もありませんでした。お給料も4万5000バーツと、かなりの高額をいただいてましたし。ただ、もともと物事を深刻に捉えすぎるところがあり、30歳の大台を目の前にして大きな悩みに嵌ってしまいまして。丸2年勤めた後なんで、27歳の時ですかね。私生活でも、長年付き合っていた日本人の女性との悲しい別れがありまして……。で、これはちょっと天から降ってきたような印象があるんですが、突然「日本に移住する」って決めちゃったんです。もちろん、仕事も何も、何の当てもありません。でも、自力で道を切り拓きたいという衝動に駆られ、根拠もないんですが、その自信もあって。ただ、社会人に成り立ての頃から気づき、意識していた信念がありました。それは「これからは、日本国内で育成した人材を、タイ市場にフィードバックする時代だ」であり、日本で何か成し遂げさえすれば、ここタイで余人を持っては代えがたい存在になることができる、という確信があったんです。

 

──そうですか。時代は現在まさにその流れになっており、多くの日系企業が青田買いした人材をマネージャー候補として日本で育成し、こちらにフィードバックさせる戦略を取っていますね。それにしても、早くからそれに気づいた先見性と未開の地へと突き進むバイタリティーには恐れ入ります。

いやー、実際はそんないいもんじゃないで すよ。日本へ行く!って決めて母親にそれ を電話で告げた際も、「あなたの意思を尊重 するけど、辛かったらいつでも戻ってきていいからね」と涙ながらに言われ、こちらも嗚 咽を漏らすくらい号泣してしまいましたし、最初の会社を辞めた際、たった半年の勤務にも関わらず送別会を開いてもらい、その際パートのおばさんたちから「あなたの成功をいつでも祈っているわよ」って優しい言葉を掛 けられ、その時も周囲が引くくらい大泣きしてしまいました(笑)。僕が決断する時は、いつも涙、涙の連続です。でも、僕が好きな日本の歌の歌詞で「涙の数だけ強くなれるよ~ ♪」ってのがありますけど、あれ本当ですね(笑)。

 

唯一の外国人として日本人と同じ条件で働く

──そんな経緯もあって、いよいよ単身日本へ渡るわけですね?

はい。長期で滞在するにはビザが必要なので、取り急ぎ、語学学校へ入学しました。日本語の能力は十分だと感じていたので、もっぱら就活を行ない、半年の間に2社の内定を取り付けました。そして、そのうちの1つ、某大手電機メーカーに入社する運びとなりました。外国人ではありますが、日本人の中途採用者と同じ扱いで、同じ時期に採用された5人のうち、外国人は僕だけでした。ここでは、面談時の希望が叶い、アジア事業推進部に配属されました。お給料も、同年代の日本人と同じ額のものを日本円でいただき、とてもリッチな気分になりましたね(笑)

 

1年目は、マルチな能力を育成、という目的で、営業活動を行なうことになりました。200人程度の規模の課で、外国人は僕だけです。ここでは、初の「アウェー」状態での業務とあり、それはもう苦労の連続でした。いわゆる日本式の「しきたり」というやつですね。社内のみで適用される隠語を含めたローカル・ルールの数々、接待の際の席順、言葉遣いなどなど。笑えるところでは、飲み会において「〆のラーメン」に衝撃を受けました。こっちは完全にお腹パンパンな状態で、別腹も何もありませんでしたから(笑)。でも、上司や取引先の人たちが皆一様にラーメンなり蕎麦をすすっているのを見て、吐きそうになりながらかきこんだのは今となっては良い思い出です。いい意味でいつまでもお客様扱いはされませんでしたし、日本式なやり方として「見て覚える」が常識であり、細かいところまで手取り足取り教えてもらうことはありませんでしたので。でも、当時の上司はとても優しく気を遣ってくださる人で、社内の人間関係もまったくもって良好でした。

 

ただ、日常の業務に関しては大いに苦しめられました。営業という活動はタイ時代もやったことがありませんでしたし、しかも電話 での飛び込み営業ということで言葉の壁もあり、当初は電話を持つ手がぶるぶる震えていたのを思い出します。取引先はもっぱらサプライヤーのエンジニアの人たちだったのです が、ぶっきらぼうな中にもこちらのことを気 遣ってくださり、このとき学んだのが、日本の会社におけるアポ取りのオーガナイゼーションの素晴らしさです。少し愚痴っぽくなってしまいますが、タイの会社に電話をし、アポを取ろうとした場合、オペレーターから担当につながるまでが一苦労で、まず聞かれるのが、「あなたは誰?どこの会社? 会社資料と企画書を提出してくれ、話はそれからだ」と、私企業であっても、まさにお役所仕事。そして、担当につながってからも責任の所在が曖昧で、締結したと思ったことが後で簡単 にひっくり返されたり、と、どたばたの連続です(笑)。いずれにしても、ここで学んだオペレーションは自身の中に吸収し、現在に至るまで様々なシチュエーションでその効力を活かしているものです。

 

2年目は、タイへの出張が増えました。1年目に学んだ営業メソッドをタイの事業所へ持ち帰り、タイのサプライヤーとの交渉で発揮しました。当時、まだ1人だけであったタイ人スタッフにマンツーマンで付き添い、指導を行なった時期でもあります。

 

3年目に、タイの事業所が本格的に開設。引き続き、タイ人スタッフと共にタイ市場の開拓に努め、同時に日本国内においても全国津々浦々、関西、四国、広島などを駆け回り、営業活動を行ないました。この1年は多忙でしたが、日々の成長とやり甲斐を強く感じた時であり、プライベートの方も順調で非常に充実した日々を送っていたと思います。

 

そうこうしているうちに、僕にとっては非情な宣告が。「タイへ帰任してほしい」との打診があったのです。正直、まったく帰りたくはありませんでした。まだ何かを成し遂げたとも思えませんでしたし。しかし、上司の度重なる説得もあり、これからは培ったスキルをタイ市場にフィードバックしよう、と決意を固めたのです。

 

4年目、タイへ戻ってきました。タイ事業所におけるマネージャーとして。ローカル・スタッフ1名でスタートした事業所も今では社員の数が6名に増え、彼ら部下との共同作業でタイ市場におけるマーケットの開拓に従事し、今ではおかげさまでこの分野で市場シェアー・ナンバーワンにまで至りました。ここで一番気を付けている事は、ローカル・スタッフに対して日本式を100%押し付けることが正しい方法ではない、ということ。そこには国民気質、風土・慣習の違いがあり、いわゆるローカリゼーションを行なうこと、そこにこそ、僕が今まで経験で培った考えやメソッドを導入する余地があり、それを行なうのに僕ほどの適任者は存在しない、という強い自負もあります。

 

その他、アセアン経済会議における弊社のプレゼンのための戦略会議に出席、プレゼン資料作成プロジェクトに参加したり、アメリカや日本での会議に同行するなど、まだまだ志半ばではありますが、順調に業務を行なえていると思います。

 

自分にしかできないことがある

──いやー、エリートと呼ばれる所以、よく理解できました。最後に伝えたいこと、将来の目標などあったら教えてください。

はい、まず自身の座右の銘として、「簡単に使われる立場にはならない」ということ。常に独自性を考え、それを仕事の中に反映し、組織がより良いものになるよう尽力すること。そして、「人との出会い、人とのつながりに対する感謝の念を忘れないこと」。目標として、「自身が40歳になるまでには、自分にしかできないものを何かひとつでも確立し、それを組織、あるいは社会に還元すること」。以上です。

 

私自身、彼とは私が渡タイ以来の付き合いであり、ただ彼が日本へ渡ってからは会う機会がなく、ほぼ5年ぶりの再会であったが、たくましく成長した姿に驚かされたものである。その中で特に印象に残っている彼のコメントに、「タイ人の印象を変える力など僕にはない。まして国のイメージを変える力など持ち合わせていない。でも、僕の周りから一歩一歩、ちょっとずつ良くしていくことはできると思うし、それが僕にとっての使命だと思っています。昨日よりも今日、今日よりも良い明日にするために」があり、随分と歳の離れた年下の青年ではあるものの見習っていきたい、と考えている次第である。

 

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川越渉(かわごえ・わたる)

Kamin BCNT代表。日本で雑誌編集者として業務後、39歳のときに一念発起し、タイへ移住。1年間、大学にてタイ語を勉強した後、通訳兼コーディネーターとして大手電機メーカーに勤務。日系新聞社での勤務を経て、4年前より起業し、ゲスト ハウス経営、展示会オーガナイザー、通訳などの人材派遣業を手がける。在タイ8年目。

 

 

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