チベット自治区の現状を報告

チベット自治区の現状を報告

中国が抱えるアキレス腱

新疆ウイグル自治区とチベット自治区──。
中国が抱えるアキレス腱といっていい。
現在は強い権力によって抑え込んではいるが、いつ反政府暴動が起きるのかわからないエリアでもある。
一昨年末から今年にかけ、このエリアを何回か訪ねた。
どちらも、「ここまでやらなければいけないのか」と天を仰ぐような状況が続いている。
その現実を2回に分けてレポートしてみようと思う。

 

個人旅行は全く不可能

チベット自治区を外国人は自由に訪ねることはできない。入域許可証をとり、ホテルを予約し、ガイドをつけなくてはならない。つまり個人の旅行者であっても、完全パッケージツアーの形にしなくてはチベット自治区に入ることができないのだ。

このガイドにはふたつの役割が課せられている。ひとつは通常の観光ガイド、もうひとつは監視役である。

北京に住む日本人3人が中国の旅行会社を通してチベット旅行を手配してもらった。成都から飛行機でチベット自治区のラサに入った。空港で待っていたのは、成都出身の漢民族のガイドだった。日程は3泊4日。ラサ市内のポタラ宮や周辺のチベット仏教の寺院、そしてヒマラヤを眺めるポイントへ。いってみれば、ごく普通のチベット観光である。

寺院やラサを離れて山に向かうときはそれほどでもなかったが、ラサ市内を歩くときはぴったりとガイドが脇に着き、少しでも観光地ではない住宅街に入ろうとすると制限がかかったという。

「そこは危険ですから行ってはいけません」

チベット料理店に入ることもできなかったという。ラサにはチベット人が経営するレストランがいくつもある。ラサに観光にやってくる漢民族の楽しみのひとつは、あまり口にしたことがないチベット料理だという。しかし日本人の3人は、店に入ることも許されなかった。

「チベット料理店は衛生面で問題があるので入ることはできません」

「漢民族は入っていくでしょ」 と抗議しても受け入れてはくれなかったという。結局、入ったのは四川料理店だった。チベット人と接触することを禁じているようだった。

 

失われた全体性を取り戻そうとする激しい欲求

なぜ中国政府は、外国人とチベット人の接触に、ここまで神経を遣うのだろうか。

そこには第2次世界大戦後の中国とチベットの関係がある。中国のチベット侵攻が本格化するのは、中華人民共和国、つまりいまの中国になってからだ。そこにはさまざまな理由が語られているが、明確なものがあるわけではない。チベットの地下資源が魅力という話もあるが、それは、これまで領土ではなかった土地を占領するときの論理にすぎない。中国人の発想のなかにあるは、清末期に欧米を中心とした諸国に踏みにじられた中国の回復だと思う。

清もチベットに侵攻している。しかし、やがて清崩壊の時期と重なっていく。清のチベット支配は中途半端なものだった。

その後、成立する中華民国、中華人民共和国は、清の時代の領土をそのまま受け継ぐことになる。そこで問題になったのが、チベットとモンゴルだった。イギリスに亡命していたダライ・ラマ13世が帰国し、チベットは独立の動きを見せる。それに中国は反応する。再びチベットを通し、イギリスが影響力を強めていくのではないか。チベット侵攻へと進むのだ。

1951年、中国の人民解放軍がラサに向かって進軍し、中国はチベット全域を制圧していく。チベット人は激しい抵抗運動を展開した。チベット動乱である。チベット各地で起きた蜂起は、中国の軍事力の前で悲惨な結末を迎えることになる。

1959年、ダライ・ラマ14世はチベットを脱出する。ダライ・ラマは事実上のチベットの君主である。ダライ・ラマ14世はインドに逃れ、そこでチベット亡命政府を樹立することになるのだ。

1988年、ラサで暴動が起きる。当時のチベット自治区党委書記の胡錦涛は戒厳令を布告する。中国でははじめての戒厳令だった。彼は4年間、チベット行政のトップを務めたが、その成果が党内で高く評価されたという。後に彼は国家主席になる。

中国はチベットを抑え込むことに成功していくが、国際社会は違った。1989年、インドに亡命したダライ・ラマ14世は、ノーベル平和賞を受ける。中国政府は強く反発した。

日本人の多くの目にも、チベットで中国が行なった行為は侵略に映った。しかし中国には別の文脈がある。チベットが西側社会に通じているという疑惑である。

中国人の意識のなかに強く刷り込まれているのは、「清の時代の末期、欧米列強が中国を食い物にしていった」という意識である。それはイデオロギーや経済をも超えている気がする。中国が発展し、目指すものは、欧米列強に踏みにじられる前の枠組みである。

その象徴がチベットなのだ。チベットを放置すると、そこから再び欧米が入り込んでくる。そこから守るためには、チベットを支配することは必要なことだった。中国人の多くは、チベットを中国領土にしなければ、やがて欧米のものになっていってしまうと考えているという。それよりも中国が支配したほうがいい……と。

中国では欧米の民主主義を西方民主と呼ぶ。それに対して、自分たちのシステムを特徴ある民主主義という。そのロジックの背後には、イデオロギー以前の、植民地時代が横たわっている。ダライ・ラマ14世のノーベル平和賞にしても、欧米はそういう手段を使って、再び中国に入り込もうとしているように映るのかもしれない。

中国政府が、外国人とチベット人の接触に神経を尖らせるのはそのためだった。

しかしそれは極めて中国的な問題だった。チベット人にしたら、それ以前に人権の回復であり、自治の獲得である。

ラサの街は自由に歩くことはできない

僕は西寧から青蔵鉄道に乗ってラサに入った。標高が5000メートルを超えるという世界で最も高い地点を走る列車である。中国がチベットを発展させるために建設したと強調する鉄道である。その車窓を眺めていると、しばしば列車に向かって最敬礼をする人々を目にした。そう、2、3キロにひとりという割合だろうか。迷彩服を着た人が多かったから、最初は、鉄道を警備する人民解放軍の兵士かと思った。

しかしよく見ると、作業着姿の男性もいる。脇には小さな詰め所があり、オートバイが停められていることが多かった。列車に合わせて詰め所にやってくるようだった。

後で訊くと民間人で、なかにはチベット人も含まれていた。「中国政府がつくった鉄道を皆で守ろう」という政策に駆り出された人たちだった。任務は鉄道沿線の治安維持である。多くはないが給料も出るのだという。

沿線に住むチベット人への踏み絵の役割も担っている気がした。この任務を受けるチベット人は、中国に対して従順を誓っているという踏み絵である。中国の鉄道は何回か乗っているが、沿線に警備の人が立つ路線ははじめてだった。

列車はラサ駅に到着した。僕は人の流れについて改札に向かった。チベット入域許可証は列車に乗るときにチェックされていた。このまま、ラサの街に出ることが可能のような気がしたのだ。

しかし改札の少し手前で、公安に止められた。脇で待つように指示された。そこへ行くと、10人以上のチベット人がいた。彼らも公安に止められたのだ。

改札を見た。切符を渡すだけで、多くの人が外に出ていく。顔つきや服装を見る。

皆、漢民族だった。

列車に乗ったときから不思議だった。車内を埋める客の大半は漢民族だったのだ。チベットを開発するためにつくられた列車を利用するのは漢民族。そして彼らは普通にラサの街に出ることができる。しかし僕とチベット人は……。

僕はわかる。外国人だから別室でチェックが待っているのかもしれない。しかしチベット人は違う。彼らの土地ではないか。チベット人たちは文句ひとついわず、改札脇に立っていた。

大方の客が改札を出るのを待って、僕らは列をつくって歩き、別室に向かった。そこにはすでに多くのチベット人がいた。乗った列車には、チベット人専用車両があったのかもしれない。そこまではっきりと区分けしなくても、予約の段階で振り分けることができる。先に降りたチベット人が、別室でチェックを受けていたのだ。

僕のチェックは簡単に終わってしまった。許可証とパスポートを渡すと、パソコンで照合していく。それが終わると、パスポートを返してくれた。

しかしチベット人のチェックは入念だった。全身の写真をとり、顔写真も正面のほかに左右も撮る。そして登録し、別室でさらにチェックを受けなくてはならないようだった。

ラサで訊くと、チベット人全員をチェックしているわけではないようだった。ラサ暴動の後も、チベットでは中国政府とチベット人の衝突は起きている。

2008年3月には、チベット自治州全域で反政府デモが起きている。いまでも毎年3月には入域許可証が発行されないが、その理由はこのデモではないかといわれている。その後も、僧侶の焼身自殺やデモが何回も起きている。中国政府はそれらを分析し、チベット自治区の特定のエリアに住む人へのチェックを厳しくいているのだという。

 

チベット人の拠り所である仏教

いや、そういうことではないのだ。チベット自治区はチベット人の土地である。そこに住む人々が省都であるラサに入ろうとすると制限を受ける。しかし下界からやってくる漢民族はフリーなのだ。中国政府の発想では、チベットはすでに漢民族の領土なのだろう。そのなかで不穏な行動を起こそうとするチベット人を徹底的にチェックする。しかしその土地は、もともとチベット人のものなのだ。

「ひどい話です」

帰国後、日本でひとりのチベット人と会った。彼にこの話を向けると、そんな言葉が返ってきた。

「チベット自治区では、チベット人に未来はありません。息を潜めるようにして、中国の公安の支持に従って生きていくしかないんです。中国政府は、チベット式の正月儀式を禁止しました。漢民族式に祝え……と。チベット人は表向きが従いましたが、家でこっそりとチベット式のお祝いをしています。すべてがそうなんです。もう、チベットの土地はないようなものなんですよ」

そういうチベット人の表情は寂しげだった。

僕がラサを訪ねた日は、チベット族の巡礼日にあたっていた。ラサ市内にはいくつもの巡礼路がつくられている。ポタラ宮の一周もそのひとつだ。

巡礼日は年に何回かあるが、毎年、12月のそれがいちばん盛んだという。チベット人は基本的に農業を生業にしている。12月からは冬の農閑期に入る。その前に、巡礼日がつくられている。農産物が採れ、ヤクも育ったことを神に感謝するわけだ。

僕は市内観光を選んでいた。そのコースは、自然と巡礼路と重なっていた。

多くのチベット人がマニ車をまわしながら道を歩く。その途中にある寺院で祈る。なかにはそこで五体投地をはじめるチベット人もいる。

巡礼路沿いには、かなりの数の物乞いが並んでいた。金を入れる器を手に、濁った瞳を向けてくる。しかしなにかが違う。チベット人らしくないのだ。

チベット人と漢民族はその区別がわかりにくいことがある。チベット人によると、頬骨がやや出ているのがチベット人だという。

その識別を当てはめる。やはり違う。訊くと皆、漢民族だった。

「巡礼日に合わせて、四川省や甘粛省からあがってきたんです」

「あがってきた?」

「彼らは漢民族だから、自由にラサに入れます。漢民族は施しをしないけど、チベット人は違う。物乞いも儲かるみたいです」

ひとりのチベット人が教えてくれた。

中国は社会主義を採用した。この思想は宗教を評価しない。科学的な論理だから、数量化が難しい宗教は否定的な立場をとる。中国もそうだった。中国は仏教、儒教などの寺院があったが、多くがその活動を停止している。寺院を破壊するようなことはなかったが、人々の意識のなかで、宗教はかなり低くなっていった。

仏教にはもともと人にものを与えることで善を積む発想がある。しかしそんな発想が薄れた中国では、物乞いは生きづらい存在になっていく。そもそも社会主義のなかには物乞いなどいないことになっていた。

しかしチベットは仏教が色濃く生活に投影されていた。チベット仏教である。いまでのチット人の8割は鳥葬で葬られる。巡礼にしても仏教に彩られた儀式だ。

チベット人はよくこういう。

「私たちは形にならないものを守って生きています」

それは中国に対する必死の抵抗の言葉のようにも聞こえる。チベット仏教の世界に入っていれば身は安全という理解もあるだろう。中国は宗教まで踏み込んではいないからだ。

彼らのなかには、当然、施しの文化がある。善を積む発想は、物乞いに小銭を与える行為を生む。中国社会にいる物乞いにしたら、天国のように映るのだろうか。村々から巡礼のためにラサにチベット人が集まるこの日が、俗ないい方をすれば稼ぎどきでもあるのだ。

宗教に救いを求める中国人が増加

ジョカン寺にも出向いた。ラサで最も有名な寺院のひとつである。ちょうどその日はご開帳日にあたっていた。たくさんの人が寺に集まっていた。

本堂脇では数人のチベット僧が経を唱えていた。叩かれる太鼓の音があたりに響く。

ふと見ると、その横に3人の男性がひれ伏していた。首にはカターと呼ばれる布をかけている。カターというのは、寺院に参詣するときに首からかける白い布だ。

「帰依した漢民族の人です」

「帰依?」

「最近、増えているようです」

ガイドがそう説明してくれた。チベット仏教に帰依する漢民族……。

2012年にインドのブッダガヤで行なわれた儀式を思いだした。カーチャクラ灌頂と呼ばれる儀式だった。これはダライ・ラマ14世が弟子に力を伝授するものだった。これに対し、中国政府はチベット人へのパスポートの発給を停止した。このニュースは、中国政府の弾圧の好例として世界に流れた。

ところがこの儀式に、1500人もの漢民族が参加したのである。チベット仏教を信ずる漢民族だった。

中国は豊かになった。とくに沿岸部の生活は目を瞠るほどだ。上海や北京の物価はすでにかなり高い。住宅を手に入れ、十分な資金を手に入れた彼ら。それは中国政府にしてみれば、貧しい中国からの脱却であり、中国型の計画経済の成果と評価するものだった。

中国人の賃金は上昇し、多くの外資系メーカーは東南アジアなどへのシフトに傾いていった。しかし中国経済の勢いは止まっていない。膨大な人口の生活レベルのアップが、購買力の高まりを生み、内需の拡大が経済を支えている。中国に進出する海外の企業も、製造業からサービス業へとシフトしつつある。この内需拡大型成長は、あと3年は続くとみられている。

しかしいま、中国人はまったく別の問題を抱えはじめている。心が埋まらないのだ。幸せとはなんなのか……模索しはじめている。そしてそこに充足感を生む方法論を、中国政府はもっていないようにも思える。

そんななかで、チベット仏教に救いを求めようとする中国人がいても不思議ではなかった。中国はその支配を裏づけるように、漢民族のチベット自治区への入域をフリーにしている。それはチベット仏教との接点を増やす結果を生んだ。そして帰依していく漢民族……。それは政府にしたら想定外の行動であり、歴史の皮肉にも映る。

中国が抱えはじめたアキレス腱とは、心の充足かもしれない。それをチベット問題が浮き上がらせる。

上海で開かれるチベット仏教の講座はいつも満杯だという。

 

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下川裕治(しもかわ・ゆうじ)

作家。元新聞記者。主な著作に、「本社はわかってくれない―東南アジア駐在員はつらいよ」(講談社現代新書)、「12万円で世界を歩く」(朝日文庫)、「パソコン探険」(双葉文庫)、「海外路上観察学 ぼくの地球歩きノート」(徳間書店)、「ホテルバンコクにようこそ」(双葉文庫)、「アジアの誘惑」(講談社文庫)、「アジアの弟子」(幻冬舎文庫)、「バンコク子連れ留学」(徳間文庫)、「アジアの居場所」(主婦の友社)、「新・バンコク探検」(双葉文庫)、「タイ語でタイ化」(双葉文庫)、「タイ語の本音」(双葉文庫)、「アジアの友人」(講談社文庫)、「バンコク迷走」(双葉文庫)、「「生きづらい日本人」を捨てる」(光文社新書)、「週末アジアでちょっと幸せ」(朝日文庫)、「週末バンコクでちょっと脱力」(朝日文庫)等がある。

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