ミャンマーの多民族が宝石の産地に集結した

平和を祈願する800年祭が開催

ミャンマーの多民族が宝石の産地に集結した

モゴック──。外国人でこの町の名を知っている方は、相当なミャンマー通か、関係者に違いない。
ミャンマー人に言わせれば、「風光明媚なとても美しい町」という言葉とともに、「ミャンマーで一番の金持ちの町」という答えが返ってくる。
ルビーに代表される宝石の町で、平和を祈願する「800年祭」が行なわれた。
様々な宗教団体や各地の民族が集結し、著名人も数多く参加したこの祭典を中心に、未だ外国人立ち入り制限のあるモゴックの全容を紹介したい。

外国人立ち入り禁止のベールに包まれた町

ミャンマーにはこのMogok(モゴック)の他、Mong Hsu(モンスー)、Nanya seik(ナムヤー)などの著名なルビー鉱山があるが、歴史、名声ともに最もネームバリューがあるのがこのモゴックだ。

この国の王朝の歴史の中に出てくる「ロイヤル・ジュエリー」に装飾されているルビーの大半はこのモゴック産と言われており、香港などで開催される著名なオークションでは、1キャラットあたり5万米ドル以上の値が付いた150個以上のルビーのうち、約90%がモゴック産だったという驚くべき報告もある。

町の入口には「ようこそルビーランドへ」という看板があるが、モゴックはルビーだけでなく、レッドスピネルやブルーサファイアも有名だ。その他、ペリドット、アパタイト、スカポライト、ムーンストーン、ジルコン、ガーネットやアメシストなどの産地としても知られている。そのため、この町は、チャッピン(Kyatpyin)をはじめとした複数の村や宝石を産出する渓谷を含めて「Mogok Stone Tract」(モゴック ストーン トラクト)を形成している。

モゴックはマンダレーから北東へ約200キロのところにある。 このエリアは上ビルマとも呼ばれ、マンダレー管区のKathe(ケーテ)地区の一部になっている。

モゴックへのルートは、以前に比べてだいぶ楽になった。マンダレーからの舗装道路は1990年代初頭に建設され、約6時間で到着できるが、数年前に完成したバイパス道路を行けば、約2時間短縮できる。

ミャンマー人に「リッチな町」と言わしめる理由は、もちろん、この宝石を介在としたジュエリー・ビジネスの繁栄にあるが、それを抜きにしても、町自体も本当に美しい。

周囲を緑の山々に囲まれた盆地のような形状で、山頂には巨大な白亜のパゴダがそびえ立ち、尾根を這うように長い参道が伸びている。まるで要塞のようだ。

町の中心には昔の宝石の採掘跡にできた小さな人造湖があり、湖底には当時採掘に使われた鉄道の線路が沈んでいるという逸話も残されている。山肌に点在する建築物は山岳民族の教会で、少数民族のリス族も多い。こうした山の高台に立って周囲を一望すると、ところどころ緑のカーペットがむしり取られたような採掘現場が目に入る。人口約30万人、標高約1500メートルにある町は石畳が敷き詰めれた趣のある風情が漂い、軽井沢のような快適な気候で避暑客も多いそうだ。

 

ビルマ族の王朝を支えてきた宝石

今年800年祭が行なわれたように、モゴックの歴史は意外と古い。今から100年以上前の1915年にドイツ人のG.F. Kunzが、モゴック発祥のルビー伝説について聴聞したことをレポートしている。

伝説では約2000年前に蛇が3個の卵を産み、 最初の卵からはバガン王、第2の卵からは中国の皇帝、第3の卵からはモゴックのルビーが誕生したというもの。

モゴックの鉱山がいつごろから採掘されてきたかは諸説あるが、最も古い記録では6世紀にはすでに存在したとされている。6世紀の殷時代になると、モゴックのルビー鉱山は殷からシャン族に引き継がれ、ビルマ族による最初の王朝であるバガン王朝が樹立された1044年には、モゴックのルビーはすでに王国の経済活動の重要な位置づけになっていたと考えられている。

しかし、ビルマ国王は一定のサイズを超える価値の高いルビーはすべて自身の所有にし、供出しなかった者は拷問の責め苦や死罪にしたという。そのため、大きい石は献上を回避すべく小分割して売買されたこともあったそうだ。 17世紀~18世紀にかけてはビルマ国王の過酷な統制の下、宝石を増産するために容赦ない要求が出され、鉱山はまさに流刑場と化していたという。

3度に及ぶ英緬戦争の時代に突入し、英国がこの地を支配するようになると、宝石の採掘と売買に関しても、英国が監視するようになった。その後1887年に採掘権がロンドンのジュエラーに与えられ、ビルマ ・ルビー マインズ社(BRM)が設立された。同社はビルマ政府に権利金と利益の30%を支払うことで採掘の独占権を獲得し、重機を使用した機械化された採掘方法を行使したという。

ちなみに、 同社はビルマのルビーを欧米に知らしめる役割を果たした。 しかし、災害や盗難など幾多の問題に直面し、また、人造ルビーの普及によって市場不安や価格急落が起こり、同社は1931年に鉱山を閉鎖した。

1930年代に英国が撤退すると、現地人の手による採掘が再開された。採掘方法は昔ながらの手法に戻り、1963年にはビルマ政府によって事業は完全に国営化された。

外国人による採掘や販売はすべて禁止され、さらに外国人がこの町へ立ち入ることも禁止された。

1990年代になると、これらの規制は緩やかになり、政府と民間企業による合弁事業が許可されるようになった。さらに最近ではミャンマーの宝石取引は革新的な変化を遂げ、宝石の個人売買と合法的な輸出入が可能となり、多くの外国人によって活発な商取引が行なわれるようになってきた。

自然が形成した景観の素晴らしさ

世界の多くの著名な宝石産地がそうであるように、「モゴック・ストーン・トラクト」も地勢、植生、気候などの悪条件が重なり、地質踏査が極めて困難な地域とされている。それでもすでに精度の高い地質図が作成されており、この地区にはモゴック片麻岩類と呼ばれる変成度の高い変成岩類、花崗岩類、大理石などが広く分布していることが記されている。

こうした地質環境で最も素晴らしい景観は、風化作用で黒くなった豪華な大理石の尖塔である。これらの地層はストーン・トラクト全体で見られ、その規模は大きく異なる。 黒く風化した表面を取り除くと、白い大理石が見え、 最も大きな露頭の一つに、Kyauk Pyat That寺が建てられている。 カルストと呼ばれる岩の露頭に建てられた寺院の構造は本当に見事で、まるでSF映画『Avatar(アバター)』の中から出てきたようだ。

モゴック地域のルビー、サファイアの成因は5500万年前に始まったインドプレートとユーラシアプレートの衝突に関連があるそうだ。2つのプレートの衝突による広域な温度・圧力の上昇により、この地の変成岩が形成された。アフガニスタン、パキスタン、タジキスタン、ネパールおよびベトナムにまで広がる一連の大理石起源のルビー鉱床も同一の地質学的な原因によるものと考えられているのだ。

 

活気あふれる露店が立ち並ぶ宝石マーケット

宝石マーケットは5か所あるが、4か所は毎日開催されている。通常は午前中、もしくは午後のみの2~3時間の営業である。町東部の「Yoke Shin Yone」は、通称「Cinema」と呼ばれる午前中のみ開催のマーケット。ネーミング通りに古い映画館前の通りに活気あふれる露店が立ち並ぶ。

マーケットといっても、大半が手作り机や木箱、あるいは直接地面に白い布を敷いてその上に真鍮製の皿に盛られた宝石類を並べた露店風の風情である。しかも製品のほとんどが低品質の未研磨石。ミャンマーの通貨であるチャット取引が原則だが、交渉次第で米ドルの使用も可能だ。

同じ東部地区の「Pan Shan」の宝石マーケットは、午後1時~3時に開催されている。ここは町最大規模で、強い日差し避けの300近いパラソルの下に露店が軒を並べている。その様子から通称「umbrella」マーケットと呼ばれている。

こうしたマーケットでは低品質の未研磨石や原石も多いが、カット・研磨された質の良いルビー、サファイア、スピネルなど、多種類の宝石も並べられ、ルーペなどで慎重に検品する様子もこの町の風物詩のようだ。

こうした宝石市場には、ミャンマー人に加え、ネパール人の姿も数多く見られる。彼らは英国統治時代にモゴック鉱山の警備に送られてきたグルカ族の子孫である。

町北部の「Bamard-myo」のマーケットは5日に1度の周期で開催されている。ここには宝石類よりも、野菜、干物、衣類、花など日用雑貨品が多く、モゴックの人々の生活に密着したマーケットだ。

メインストリート沿いでは店舗を構えたところが大半だが、脇道に入ると、路上にシートを敷いただけの露天商が多く見られる。売り手の多くは女性たちであるのもモゴックの特色と言えよう。価格はピンからキリまでで、交渉次第となる。

 

多民族・異教徒が共存共栄する特殊な町

モゴックの町の名前の起源は、シャン語の「Mein Kut」からきているようだ。 「Mein」は「町」を意味し、「Kut」は「曲がりくねった」という意味。その後何世紀も経て、「Mein Kut」は徐々にモゴックというの現在の町名に変わっていった。

今回開催された「生誕800年祭」は、フェスティバル準備委員会の幹部によると、町の歴史の中で、これまでは最大規模で壮大なものだったという。

むろんその背景には、地域の活性化、国内外の観光客誘致、若い世代の雇用の機会の増大などが目的に含まれているという。そのための整備作業も行なわれた。

道路や橋梁の改修改装工事も実施された。また、通常は立ち入り禁止の外国人観光客が祭りの際に入場できるようにする要請も出した。

50人以上の実行委員会の会議では、宗教界から高僧クラスを招き、彼らの協力も得て、25の地元の団体と起業家が積極的に協力して壮大な祝典となった。

アトラクションも、スポーツ・トーナメント、宗教詠唱競技、リサイタル、説話、子供向け仏教知識コンテストなどが行なわれた。

モゴック出身のアーティスト以外にも、この国では有名なプレゼンテーターのティン・モー・ルインさんや人気女優のウェ・モーモー・シェさん、プェプェさん、キンレー・ノェさんなどのエンターテイナーたちが参加。きらびやかなパフォーマンスを見せてくれた。また、マンダレー管区首相のDr. ZawMyint Maungも式典に駆け付けた。

地元の若者たちは、式典の歌詞を作曲する準備に没頭した。

「800周年記念曲を作曲するのに約4か月かかりました。自然や美しさばかりに焦点を当てるのではなく、主に、平和、統一、力強さ、とすべての年齢の人々に共感が得れれるように作りました」と、モゴック在住の若手シンガーソングライターのMoe Ma Khaは述べている。

ミャンマーの国内旅行業界の発展はまだ脆弱だが、外国人観光客は、道路や治安状況に応じて、モゴックを訪れることに強い関心を示している。このため、町には数多くのホテル、モーテル、旅館、ホステルが誕生している。

それでも現状ではまだ約200部屋しか確保されておらず、観光客の需要には追い付かないが、現在、瞑想センター、修道院などでは一時的な宿泊施設としてリストを作成中でもある。これらの施設を含めると受け入れ可能なスペースは約4000人になるそうだ。しかし、「これでもまだ十分ではありません」と、実行委員会の宿泊施設担当のPhyu Phyu Myintは説明してくれた。

今回の祭典では国内外から大勢の参加者や観光客が来たため、モゴックとマンダレー間の交通手段の不足問題やモゴックの町内での輸送手段の不足も問題となった。

モゴックの民族形成をなすバマール、シャン、リス、グルカ、シーク(仏教徒)、ヒンドゥー教、イスラム教徒やカチン族など、宗派が異なる民族の代表たちも集結した。総計20万人以上の異教徒が混在、共存するモゴックの町では、祝い事があるたびに、まず神聖な聖書から読み始めるが、今回の祭典では、1430ページの宗教的聖書「Guru Granth Sahib」が制作された。この中は10人のシーク教祖による説教も含まれている。

フェスティバルの期間中は、各民族の伝統的な食べ物は誰にでも無料で提供された。

警備体制も、地域の警察、消防隊員、赤十字のメンバーや様々な社会貢献団体組織の若者たちのほかに、地域の警察部隊が交代で治安維持にあたった。

ある消防隊員は、「町には2000人以上の消防隊員がいます。私たちは、他の社会組織や赤十字社と一緒に、安全保障上の責任を負います」と語っている。

モゴックでは初となるBogyoke Aung Sanの像は、 高僧のU Thu Mingalarによって寄贈され、将軍の103歳の誕生日に建立され、800周年記念式典の際に除幕式が行なわれた。

今回の「モゴック800周年祭」は予想を超える規模で開催され、ミャンマーの民族融和、連帯の祭典とでもいうべき国家的なイベントとなった。

 


栗原富雄(くりはら・とみお)

月刊『Yangon Press』編集長兼CEO。元日本旅行作家協会会員。1949年、東京生まれ。高校を休学して2年間、ヨーロッパ、アジア、アメリアを放浪。1975年から1988年まで、「ブルータス」「週刊宝石」の取材記者。1992年~2001年、月刊「SEVEN SEAS」、月刊「VACATION」編集長、月刊『MOKU』編集局長を歴任。その後、フリーランスを経て、2011年にミャンマーのヤンゴンへ。2013年4月、日本語フリーペーパーの「Yangon Press」を創刊。2014年9月、ミャンマー語版を創刊。VIP取材には、ダライ・ラマ14世、ゴルバチョフ元ソ連大統領、デビッド・ロックフェラー、アウンサン・スーチー他。著書に『あの助っ人外人たちは今』(実業之日本社)、『不動産広告の裏を読め』(実業之日本社)、『Yangon Press で読み取る現実と真実』(人間の科学新社)などがある。

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