ミャンマーの歴史と真実

アウンサン将軍が暗殺された旧首相官邸を修復

ミャンマーの歴史と真実

1947年7月19日、当時の首相官邸(The Secretariat`s)で、アウンサン将軍ら9人の閣僚たちが暗殺された。のちの検視では、4人のスナイパーたちは、将軍に13発の銃弾を浴びせ、うち2発が致命傷になった。そうした歴史的事件の現場となった官邸が修復される。現存するアジアの建物では最大限の評価が下るこの歴史的な建造物のリニューアルはまさに国家プロジェクトとなった。

 

ミャンマーの輝かしい歴史を象徴する建造物

ミャンマー最大の都市ヤンゴン、ボータタウンTSPのティンピューロードにある歴史的建造物の「The Secretariat ‘s」(Ministry Office旧首相官邸)ビルは、1905年に建造された。

ミャンマー通貨で2500万チャット(約230万円)という当時としては破格の費用をかけ、20世紀前半では最新の建築土木技術を駆使した、アジアに現存する建造物の中でも最大級の評価が下る貴重な建物である。

ミャンマー独立の歴史を紐解く上で重要なエリアのヤンゴン中心部に位置し、第二次大戦後、独立を推進したミャンマーのリーダーたちの面影をしのばせる場所でもある。

民主化に基づく憲法はここで書かれた。ミャンマー初の国会も開かれた。1947年にアウンサン将軍ら国のリーダーたちが暗殺された場所で、1948年1月4日にイギリスから独立した認証を受けた場所。そして「独立国家」としてここから世界に声明を発表した。そうしたミャンマーの歴史的なムーブメントの数々を生んだ場所がこの旧首相官邸だった。

建物の中庭には、暗殺されたリーダーたちへの記念塔が建てられ、翌年の独立宣言を記念したタワーも建立されている。2014年11月14日にはアメリカのオバマ元大統領もこの場所を訪れた。

こうした重要な5つの政府所有の建物が現在、保全のための修復工事が行なわれている。

歴史的建造物保全技術委員会(The Technological Committee for Maintaing Histroric Bukidings)のメンバーによると、ヤンゴンのダウンタウンにあるこの5つの修復箇所は、かつてエネルギー省のMyanmar Oil and Gas Enterprise、 ホテル観光省、内務省入国管理局および人口局の建物、商業省所管の国境貿易局の建物、首相府事務所(首相官邸)の建物として使用されていたもの。特に「The Secretariat`s」と呼ばれる旧首相官邸の修復には国の威信をかけて行なわれている。

殉難者たちを称えるための記念博物館としてリニューアル

今年(2018年)の殉難者の日(The Matyar’s Day)には、この「The Secretariat ‘s」 (Ministry Office)の2階部分が見学不可になった。建物の歴史はすでに110年が経過し、昨年は殉難者の日のたった1日だけで、約10万人の観光客が押し寄せた。そのため、階段の崩落や破損状態を検証しないと危険な状態になり、今年は2階の状況はCCTVカメラで実況することになった。

6月7日に行なわれた記者会見では、元大臣省・保管改正建築企画部の責任者であるDr.Mg Mg Thein氏が、今後の建物修復などについて発表した。この元首相官邸は全体で約16エーカーの広さがあり、来年の殉難者の日には、博物館として見学できるようにするという。

これらの建物の修復に関与する前には、以前の古い写真を注意深く検証し、もともとの構造や様式建設に使われた材料を掌握することがまず大切で、オリジナル様式を変更しないことが前提条件になった。

修復が成功すれば、建物の耐用年数を40年延ばすことができるという。また修復する建物のうち、敷地内に当該の建物だけ存在しているのは首相官邸だけで、その他は周囲に隣接して別の建物があり、修復する建物の周囲の安全も考慮しなければならない、という難しさも指摘されていた。

今年1月に組織された24人の委員からなる技術委員会は、ミャンマー・エンジニアリング協会、ミャンマー建築家協会(Association of Myanmar Architects)の考古学局、建設省などの会員または職員から選任されているが、中には、「これらの建築物を良好な条件のまま維持することは極めて困難だ、たとえば旧首相官邸の建物は113年を経過しており、その修復には最大の注意が必要である。現在、修復・保全工事に着工しているが、すべての建物が長い期間放置されており、見えない障害が多数存在するというリスクもある」という厳しい意見も出た。

さらに、委員会によると、「首相官邸の建物などは耐久壁と柱で全体の建物を支えているが、2007年のナルギス台風で屋根の一部が崩壊し、壁や床も同じように損傷している」と保全工事の難しさを語る。

リニューアルと修復の予定は、優先すべき部分は来年3月に完了するが、費用がかさむため、公園は有料になるという。修復は、オーストラリア、シンガポール、イタリアから海外の専門家や国立博物館を建設したときの技術者が担当するが、国際的な博物館専門技術者たちにも協力を要請する。まさに国家的プロジェクトなのである。現在までに2100万米ドル(約26億円)の費用が投じられているそうだ。

修復の目的は、歴史を知らない若者たちが学べるように、将軍たちが暗殺されたときの状況を再現した展示室を設けたり、殉難者たちに関連する遺品の展示博物館、さらに国会博物館、民族の伝統芸能博物館なども併設されるという。中庭にはモダンな公園も作られ、市民に開放される。

独立国家になるまでに多くの貴重な命を失い、数えきれないほどの損失や悲惨な状況などを経た歴史の真実を、将来ある若者にぜひ理解してほしいという思いが込められたプロジェクトでもあるのだ。

暗殺された殉難者の子孫も記者会見に参加

ヤンゴンにあるイギリス植民地時代の歴史的建造物「旧首相官邸」。アウンサン・スー・チー氏の父で独立運動の英雄アウンサン将軍ら当時の閣僚計9人が暗殺された場所でもあることは周知の事実だ。今回老朽化のため修復される「大英帝国の権威の象徴」として威容を誇ったビクトリア朝の建物は、東京ドーム1・4個分の広さの中に建つ。

終戦の2年後の1947年1月4日、アウンサン将軍はたった6人の代表団でロンドンに乗り込んだ。当時、イギリスのアトリ―内閣との間で、1年以内に「連邦共和国制国家」として完全独立を認めるとの協定書の調印に、半ば強引にこぎつけたのだ。

しかしこの時、協定書に署名しなかった人物が代表団の中に2人いた。その1人が約半年後の7月19日に歴史に残る大事件を引き起こす。当時の国会議事堂兼政府庁舎(Secretarial Art Building)で行政参事会会議のメンバーを暗殺した首謀者として逮捕され、4か月後に処刑されたウー・ソォー元イギリス領ビルマ3代首相だった。ウー・ソォーの背後にはイギリスの影がある、という説が今でも残るが、真相は未だ闇の中である。

この会議は長らく続いたイギリスからの干渉と影響力を廃止、新生ビルマの建国に着手しようとする矢先の重要な閣僚会議だった。出席者はアウンサン行政参事会議長代行(首相格)をはじめ、バウイン貿易大臣、マンバカイン産農大臣、サ・サントン山岳地域大臣、ラぜック文部大臣、バチョー情報大臣、タキンミヤ自治大臣、オウンマウン交通通信局長ら8人の閣僚で、急変を知らせに来たラぜック大臣のボディガードの青年コトウェーを含む計9人がわずか1分余りで射殺された。

7月、暗殺された遺族たちにこの官邸と政府庁舎が公開された。情報通信省の協力で私も同行を許された。今後、修復に入るため、現状の形で見学できるのはこれが最後であった。

アウンサン将軍らが銃弾に倒れたのは西南棟2階の会議室。窓から西日が差し込むその部屋には、壁や床に無数に残るという銃痕は木の羽目板などで隠され、惨劇はうかがい知れない。壁際に祭壇があり、アウンサン将軍の肖像も掲げられ、水や生花が供えられている。

しかし、1962年の軍事政権発足後は一般の立ち入りは禁止された。19 97~2010年までの14年間はこの殉教者の日の式典さえ中止され、長らくフェンスと鉄条網で囲まれたアンタチャブルな場所だった。2005年にヤンゴンからネピドーに首都が遷都された後は、治安部隊が一部を宿営地とした以外、大部分が放置され、老朽化も目立っようになっていた。

その後、2011年からの民政移管により、この歴史的建物を美術館やホテルなどへの転用の構想が持ち上がった。当初はホテル案が有力だったが、国民の間から「将軍の魂が眠る聖なる場所になぜホテルなのか?」と反対論が噴出したため、白紙になり、2014年に旧軍政幹部の親族が経営する企業が美術館を核にした修復案を提示し、政府から管理運営権を取得したという。そして修復作業が始まったという経過である。

アウンサン・スー・チーは今なにを考えているのか

毎年7月19日のこの「殉難者の日」になると、どうしても現大統領国家顧問兼外相のアウンサン・スー・チー氏のことが思い浮かぶ。彼女にインタビューしたアメリカ人アラン・クレメンツとの対話をまとめた『希望の声』(岩波書店刊)の中で、彼女は実父である将軍についてこんな告白をしている。

「父の死については、それ自体としては憶えていません。父が死んだことを知っていたとは思いません。私はまだ幼な過ぎました。(中略)~父は実のところ野蛮ではありませんでした。私が述べた通り、彼にはとても角があって、社交界の人々のうわべだけの体裁の良さにいらだっていました。しかし同時に彼は、精神面で大変洗練されていて、心が柔軟で、ものごとに適応することができました。だからこそ、彼はあのような偉大な人物だったと思うのです。でも彼は指導する立場にある人でしたから、その話し方がぶっきらぼうであり、いかめしく、またいつも人好きのするものとは限らなかったことを、あらゆる人々が問題にしました。しかし彼は自分を客観的に見ていて、自分のこのような振る舞いが、国家元首にふさわしいものではないことが分かっていました。そして、生涯の終わりににかけて、自分の責任を大変真剣に考えて、国民の尊厳と名誉を守りました」

アウンサン将軍と自分との相違点については、彼女は以下のように語っている。

「私たちの間に大きな違いがあるとは思いません。ただ、父は私よりすぐれた人物でした。謙遜してこう言うのではありません。父は生まれながらにして強い責任感をそなえた人でした。(中略)~事実、父の生涯について研究を始めたとき、私たちの間にある類似点に気づきました。私たちの考え方が似ていることに驚きました。私の中にある種の考え方、感じ方は、自分のものだと思っていました。ところがその後、父もすでにそれらを持っていたことを発見しました」

留学先であるイギリスのオックスフォード大学でも、研究員として2年過ごした京都大学でも、実父の研究に明け暮れたというスー・チーさんは、京大研究員時代に国会図書館まで出向いて調査したり、当時の南機関の生存者である帰還軍人に聞き取り調査を行なっていたというエピソードも残されている。

数年前に受けた毎日新聞のインタビューでは、「歴史に『もし』は付きものです。父と8人の閣僚が暗殺された日を境に国家指導部は一変しました。事件がなければ、この国の歴史は違っていたかもしれません」と、初めて本音に近い胸のうちを語っている。

⃝取材協力
ミャンマー連邦共和国情報通信省
⃝参考資料
根本敬『物語 ビルマの歴史』(中公新書)
さとうナンペイ『アウンサン物語2015』(Myanmar Times)

栗原富雄(くりはら・とみお)

月刊『Yangon Press』編集長兼CEO。元日本旅行作家協会会員。1949年、東京生まれ。高校を休学して2年間、ヨーロッパ、アジア、アメリアを放浪。1975年から1988年まで、「ブルータス」「週刊宝石」の取材記者。1992年~2001年、月刊「SEVEN SEAS」、月刊「VACATION」編集長、月刊『MOKU』編集局長を歴任。その後、フリーランスを経て、2011年にミャンマーのヤンゴンへ。2013年4月、日本語フリーペーパーの「Yangon Press」を創刊。2014年9月、ミャンマー語版を創刊。VIP取材には、ダライ・ラマ14世、ゴルバチョフ元ソ連大統領、デビッド・ロックフェラー、アウンサン・スーチー他。著書に『あの助っ人外人たちは今』(実業之日本社)、『不動産広告の裏を読め』(実業之日本社)、『Yangon Press で読み取る現実と真実』(人間の科学新社)などがある。

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