ヤンゴンで女子大学設立を目指す日本人 ②

ヤンゴンで女子大学設立を目指す日本人

ミャンマーで物語を作る

 

 

60か国を歩いた末にミャンマーに決めた

40歳までに土屋さんが出かけた外国は台湾だけだった。当時の会社の経営はまだ順調だとは言えない状態だったが、「人より広い世界を見たいと思うのなら人よりリスクを背負わなければならない。行くのは今しかない」と決意して土屋さんは頻繁に海外に足を向けるようになった。出かける前には社員に「世界戦略の準備」を口実にした。アメリカを手始めとして、ヨーロッパ、インド、シンガポールなどアジア各国、果てはアフリカ、南米などあちこちを歩いたが、「なるべく日本人がほとんど出かけない場所を旅先に選んでいました」という。モンゴルには3年近く通って、モンゴル人のパートナーとクレジット事業の立ち上げなどを計画していた。

そして60か国ほどを歩き回った末に最後にやって来たのがミャンマーだった。土屋さんは初めてのミャンマーで「ここが私の人生の本番ステージになる」と直感した。

「今までの人生での失敗の数々、そして、これまでの世界への旅はミャンマーでビジネスをするためのウォーミングアップだった気がする」と言うほど、土屋さんはミャンマーに惚れ込み、ミャンマーに骨をうずめる覚悟でいる。

土屋さんがミャンマーにはまったのは、「幼少のころ、田舎の祖父母の家での懐かしい風景が現在のミャンマーにあふれている」点だった。ミャンマーの田舎では蛍が飛んでいたりして、土屋さんに昔の日本を思い出させ、そして、ミャンマー人と日本人の間には溶け込めあえる親和性があると土屋さんは肌で感じ、「このアジア最貧国であるミャンマーで何か役立つ仕事をしたい」と考えた。

「カンボジアやラオスはモンゴルと同じで小さすぎます。長年に渡って経済が低迷してきたミャンマーだけにこれ以上は落ち込まない。良くなるばかり。ミャンマーこそアンカー」だと土屋さん。

土屋さんがミャンマーに来た頃、かつて学生運動の高まりを恐れる軍事政権が大学を長期に閉鎖した影響からミャンマーの高等教育が荒廃していた。ミャンマーでそんな現状を知った土屋さんはミャンマーの高等教育を再生させる必要性を強く感じるようになった。日本には有名な女子大学が多いが、ミャンマーには1校もないことから、私立の女子国際大学を作りたいと土屋さんは考え始めた。

「ミャンマーは母系社会であり、母親の影響を強く受けて子供は成長している。だから、いつかは母親になる若い女性の教育に力を入れれば、国際社会に対応できる人材の育成となり、ミャンマーの発展にも寄与できる」と考えた。そしてハングリー精神や根気が男性よりも断然高いと感じてきたミャンマーの若い女性に「自分自身の物語を作り始める場を提供して、私自身も一緒にミャンマーでの物語をつくっていきたい」と土屋さんは決心した。誰が先生で誰が生徒だか分からないような「メダカの学校にしたい」とも考えている。

大学認可への道は遠しの現状だが、すでに日本語や日本文化、ビジネスマナーなどの教育を目指すMSM国際女学院をヤンゴン空港から車で北に1時間ほどのレーグタウンシップ(Hlegu Township)で開発し運営している。約5万平方メートルの用地を保有しているMSM国際女学院の広大なキャンパスに電気を引き、180メートルの深さがある井戸も5か所掘った。全寮制にしており、80名が収容できる寮もキャンパスに設置している。

現在は日本の技能実習制度を利用して、日本に生徒を送り出している。MSMグループ内にミャンマー政府より認証を受けた送り出し機関であるJMJがあるが、「教育、企業面接、送り出し」を一貫して行なえることが特徴。日本語検定でN4レベルの日本語、挨拶、時間管理、ごみの分別や掃除、交通ルール、健康管理方法、生活マナー、 ビジネスマナー、研修の専門用語や基礎知識を半年間ほどで身につけてもらう。

すでに始めている語学や技能だけではなく、いつかは、農業、文化交流(音楽、絵画、スポーツ)なども教えるミャンマー初の女子大(私立の国際女子大学)になりたいと考えている。

「基本的にミャンマー人の教育はミャンマー人に担当させたい」と土屋さんは考えており、ミャンマー人の先生を育成する師範学校をMIMCの一部として設立したい方針だ。

「世界に貢献するミャンマー女性を育成し、将来の女性の大臣や大統領を輩出することが夢」と土屋さんは燃えている。

MSM国際女学院の最初のミャンマー人社員で、現在は同女学院の校長を務める土屋さんのパートナーがエイミー・ピョー・ミンさん。エイミーさんは1985年に6人兄弟の3番目の長女としてヤンゴンで生まれた。父は車の修理屋。船長をしていた祖父は当時としては珍しい国費留学生として日本に3度行っており、この祖父から日本の素晴らしさを聞かされながら、エイミーさんは育った。このため、エイミーさんは3歳の頃からいつかは日本に行きたいと考えていた。ミャンマーの大学を卒業後に日本留学の切符を手にしたエイミーさんは2006年から12年までの6年間、あこがれの日本に行き、大学などで学んだ。そして、ミャンマーに帰国後、MSMという日本の会社で日本語ができるミャンマー人を募集していることを知って応募してみた。

「土屋会長自らが面接してくれたことに魅了されました。そして、その場の即決で私の入社を決めていただけました」という。

日本の中小製造業のキャンパス進出も

ミャンマーに初の女子大学を作る夢を語り続ける土屋さんには賛同者が徐々に増えている。しかし、民間からの応援を広く得ても、「ひも付き」になる官の援助は受けないのが土屋さんの方針。

「私個人の力だけでは校舎はバンブー(竹)ハウスのままかも知れないが、多くの人の協力が得られれば、大学化へのスピードが桁違いに速まり、そのスケールも大きくなる」として、広く参加を呼び掛けている。すでに日本の有名大学の元副総長や元理事長などにMSMの無報酬の顧問に就任してもらって、アドバイスを受けている。

かつて中小企業の経営者だった土屋さんは大学作りを「日本の中小企業のパワーも結集することで実現させて行きたい」と考えている。例えば「中小企業の工場にこのキャンパス内に進出してもらい、授業が終わったら、その工場で働いて、日本に行く費用の一部を稼げるようにしたい。日本の大学生のインターシップや国際貢献体験の場としても使っていただきたい」などといったアイデアがあり、多方面からの参加を得る自立型運営を目指している。

「日本の多くの大学が日本人の学生が減った分を埋めるために東南アジア各国から学生を誘致しようとしているが、コストが高い日本にコストが安いアジアから学生を呼ぶには限界がある。日本の学校がアジアに出て、人づくりをすべきだ」と土屋さんは考えている。

土屋さんは百数十もあるミャンマーの少数民族が教育されると(安い労働力が減ってしまうなどから)困るミャンマー支配層の存在にも気づいている。しかし、土屋さんには「私たちの学校や大学では、ミャンマー全土から民族や宗教にとらわれずに、学生・研修生を求めたい」という強い信念がある。
そして、2015年10月に正式に開校式を開いた。最近では新聞広告での募集で1回に20人から30人が試験を受けにやってくるが、その内の10人ほどを採用している。入学金、授業料は当面は無料にしているのは、「まだ授業料を取るレベルの学校にはなっていない」ことが理由だと土屋さんは説明する。
現在の学生は主にお金を稼ぐため、日本の技能実習制度を利用して日本に行くことを目指している。ミャンマー政府は派遣業者に対して、ミャンマー人から1人あたり2800米ドルを渡航費も含む派遣経費として徴収することを認めているが、「この額ではビジネスとしては利益が出ないのが現状」と土屋さんは説明する。ミャンマー人は敬老精神が高いから日本への介護人材としても適している。しかし、技能実習制度で介護事業に要求される日本語レベルは「日本語検定3級(N3)とされ「もしそれが決定されると、その資格の取得に少なくとも1年間の教育が必要となる。現在は授業料を免除しているが、N3取得が義務付けられると、事前学習の費用は受け入れ企業からの支援が不可欠」と土屋さんは言う。

人生とは自分が主人公の物語を作り上げていくことだ

学校の空いている机で日本語の自習をしていたパコック出身のテインテイントゥンさん(25歳)に話しかけてみた。パコック大学では動物学を専攻、卒業後にここにきて半年になるが、日本に技能実習に行くことを目指している。日本行きが決まると、親が土地を売って、当初費用である数百万チャット(数十万円)を用意してくれる約束をしているという。日本で働いて得たお金を家族への借金返済にあてたいとテインテイントゥンさん考えている。男7人女5人、12人兄弟のお姉さんであるテインテイントゥンさんは家族の期待を背負っている。

日本に親会社がない日本人の代表者(土屋さん)自身が実の息子と共にミャンマーに住み、マンションや事務所、広大な大学予定用地などを自費で取得してきたことなどから、「土屋さんはミャンマーから逃げない人だ」として、ミャンマー人の信用を得てきた。土屋さんは住んでいるヤンゴンでも、学校があるレグータウンシップシップでも運動を兼ねて愛用の自転車で頻繁にサイクリングして周辺を見て回っている。サイクリング中に田舎の市場やこぎれいな果物農園、江戸時代のような鍛冶屋などの前を通りかかると、自転車を止めて地元との交流を欠かさない。

「私はミャンマーで初の私立女子大作りを目指します。これを駅伝に例えれば、私は第1区間を第1走者として走りますが、2区間に入れば私は伴走するトラックの上からの応援役になります」と土屋さん。土屋さんはかつて父親から無理だと反対されて実現できなかった画家になる夢もミャンマーで実現させたいと考えている。そして「私の芸術論もミャンマーの若い世代に伝えていきたい」と計画している。60代後半に入った土屋さんにとってやるべきテーマがますます増えている。
土屋さんによれば、熱心な仏教国であるミャンマーの寺院には寺子屋が計1255校もあり、18万人もの子供たちが学んでいる。

「寺子屋は学校に行けない貧しい子供たちの教育面でのセーフティーネット以上の役割がある。ミャンマー社会に所得水準からは考えられない安定感や豊かさがある背景に仏教が大きな役割を果たしている」と土屋さん。しかし、その仏教寺院の中の寺子屋の半数以上には満足な校舎もないのが実情。そこでMSMでは「ミャンマー教育支援フォーラム」を立ち上げた。今後、各方面からの支援も得ながら寺子屋に対するサポート活動も展開していく。

「ミャンマーの芸術大学の学生でも入学前にピアノや弦楽器などに触れたことがない人がいる現状を見てもミャンマーでは音楽や美術の教育が欠如している。子供たちに情操教育の場を提供するお手伝いもしたい」と土屋さん。

「これまでの人生、体制に媚びず、迎合せず、信念、直感力に頼ってやってきた」土屋さんだが「ドン・キホーテと言われようとも、これからもゴーイング・マイウエイでいく」

浜松市で建設会社を経営していた時、陽明学の命題である「知行合一」を社訓としたのも、「知識があるだけではダメで行動に移さなければ意味がない」と考えたからだった。「人生の成功者ではなく、『笑利者』になりたい」と土屋さん。「富士山を何回も登頂してもダメなんです。やはりエベレスト登頂を目指したい。たとえエベレストの『3合目』のお花畑までしか行けなくてもそれでいい」と土屋さん。

「まわりから気に入られるために自分の人生があるわけではない。後悔しないためにはたくさんのことに挑戦したい」と考えてやってきた土屋さんは、今後も「自分の物語は自分自身で創り上げて行く」。

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土屋昭義(つちや・あきよし)氏

1950年6月3日、静岡県生まれ。浜松城北工業高校を卒業して地元のゼネコンに入社。官公庁営業から民間営業を志願して担当。1977年、27歳の誕生日に「シーン・メイキング(SM)」を設立して独立。電話一本で創業し、名古屋からのローカルチェーン誘致を皮切りに、商業施設、集合住宅、医療・介護施設等に事業範囲を広げ、競争物件ではなく、特命の民間工事の受注100%で業績を伸ばし、建設会社としては異例の高利益率を達成した。全国の建設会社に「情報を共有化してビジネスチャンスを広げて、10年、20年先にそれぞれの地域で生き残れる会社を目指そう」と参加を呼び掛けた「ITGネットワーク」作りも2006年に始めた。中小の建設会社が大企業を目指すのではなく、各地域の中小企業が強固なネットワークでの情報処理会社への脱皮を目指した。建設会社の社長としての経営体験を書いた著書も多いが、個人の電話番号を公開し、「いつでも私(土屋昭義会長)が直接お話します。お気軽にお問合せください」と書いてきた。

松田健(まつだ・けん)

アジアジャーナリスト。元日刊工業新聞記者。主な著作には、『タイで勝つ!! 直感力こそ成功のカギ』(重化学工業通信社)、『今こそフィリピンビジネス─アジア投資の穴場』(カナリア書房)、『魅惑のミャンマー投資』(カナリア書房)などがある。

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