ヤンゴンのストランド通りを歩く

ミャンマーの中のイギリス

ミャンマーのヤンゴンに初めて来て南端のこの通りにさしかかった時、かつてどこかで見たような町並みが広がっていた。数少ない英語表記が現存するこの通りには、約1世紀に渡る歴史と数々のエピソードが残されている。本場イギリスにも「ストランド」にまつわる話は枚挙にいとまがない。

 

ロンドンのストランド・ストリートにちなんで命名される

ヤンゴンのまちにはイギリス植民地時代の名残を残す名所の英語表記がほとんど消え去った。かつて「スコット・マーケット」と呼ばれた「ボージョー・アウン・サン・マーケット」を例に出すまでもなく、通り名などはほとんどミャンマー語に改称された。

 

しかし、市の南端ヤンゴン川沿いを東西に走るストランド通りだけは命名当時のままだ。税関、郵便局、イギリス大使館、そして、ヤンコン最高級のホテル「ザ・ストランド」などの歴史的建造物が現存、保護されている。

この通りの南側は、国内最大のコンテナ・ターミナルになっているが、2011年にアジア・ワールド社が通りに沿って「ニュー・ストランド・ロード」という全長9キロの有料道路を建設し、貨物便郵送のスピードアップ化を図った。ダウンタウンの異常な渋滞を避けるため、商業用トラックなどをこの道路へ導く目論見だったが、激しい交通地獄の解消にはなってはいない。

 

しかし、ストランド通りは、英国風情が漂うヤンゴンでもと口説くの雰囲気を持つストリートであることは確かだ。むろん当時の統治者たちがロンドンのストランド通りにちなんで命名したことは疑う余地がない。

 

ロンドン中心部のウエストミンスター区にあるストランド・ストリートは、全長約1キロの短い通りだが、西側にトラファルガー広場をはじめ、St.Mary Le StrandやSt. Clement Danesといった由緖ある歴史的な教会あど、こちらもヘリテージの建造物が数多い。

 

ちなみに、ロンドンのストランド・ストリートはローマ時代に発祥したという。11世紀には「strondway」、12世紀に「stronde」、そして、13世紀になって、「la Stranda」と呼ばれ、古い英文では「浜」や「岸」をいみする「Strand」に定着していった。いうなれば、この一帯は、その昔は川幅がかなり広かったテームズ川の浅瀬に位置していたことをこの古文の意味からもうかがえる。

 

余談になるが、かつてイギリスでは「ストランド・マガジン」(The Strand Magazine)という月刊誌が発行されていた。ジョージ・ニューンズ(1851~1910)が、1891年1月に創刊。ファミリー・マガジンとしてスタートしたが、第2次大戦中に紙の配給制限を受け、サイズ宿所などを余儀なくされたが、資金調達が困難になり、60年後の1950年に廃刊になった。その後、半世紀を経て雑誌名を「ストランド・ミステリー・マガジン」に変更し、ミステリー雑誌として再スタートを切った。しかし、この雑誌が世界的に有名になったのは、何といっても、その執筆陣の顔ぶれにあった。

 

コナン・ドイルが生んだ名探偵「シャーロック・ホームズ」シリーズを初めて掲載したしたのもこの雑誌だった。厳密にはドイルの3作目になるが、短篇『ボヘミアの醜聞』が1891年7月号に掲載されてから読者の絶大な指示を得るようになった。そして、ドイルの作品は同誌に発表・連載されていき、最終的には1927年までの約35年間に、56作がシリーズとして「ストランド・マガジン」に掲載され、シャーロック・ホームズは不動の人気を得ることになる。

 

ドイル以外の寄稿者でも、19世紀を代表する著名な作家たちが名を連ねている。あのエルキュール・ポアロをはじめとして数多くのミステリーを残したアガサ・クリスティー、『ジャングル・ブック』の作者にして詩人でもあったラドヤード・キップリング、超高層ビルに登る姿が目に焼き付く『キング・コング』の原作者エドガー・ウオーレス、『戦争と平和』を書いたロシアの大文豪トルストイ、SFの父と呼ばれるH・G・ウェルズ、後述するサマセット・モームも執筆したし、イギリスの宰相ウィンストン・チャーチルまでもが寄稿したという。

イランのホテル王が建設したザ・ストランド

ヤンゴンのストランド通りの中でも特にシンボリックな施設といえば、やはり、「ザ・ストランド・ホテル」を思い浮かべる。エレガントで華やかなヴィクトリアン様式の建物は、昨年5月から約半年間のリノベーションを終え、昨年12月から再開された。レトロなベッドフレームやミャンマー特産の高級漆器や大理石の床などを使い、入念な改装工事が行われた。全21質がすべてスイート・ルームになっているこのホテルは、今回の改修で、よりヴィンテージ色を強くしたが、設備面でも最新の空調や設備機器を導入したそうだ。

 

ザ・ストランドはイギリス統治下だった1901年に、「アジアのホテル王」と呼ばれたサーキーズ兄弟(Sarkies Brothers)によって建設された。

 

サーキーズ家の4兄弟はイランのイスファハン出身のアルメニア人で、黎明期におけるアジアのホテル建設に偉大な足跡を残した。シンガポールの「ラッフルズ」、マレーシアのベナン島にある「イースタン&オリエンタル」(E&Oホテル)、インドネシアの「マジャパヒ・スラバヤ」、そして、この「ザ・ストランド」など。アジアを代表する高級ホテルを建設、経営してきた。

 

次男ティグランが中心になり、1887年にバンガロー・スタイルの10室で開業した「ラッフルズ」は、12年後に現在の原型になり、後期ヴィクトリアン・イタリア復古調のホテルに変身させ、シンガポールの代表的建造物となった。先の大戦時には日本軍に接収されたが、1989年に完全閉鎖し、全面的なりノーベーションが施され、1991年9月に新装・再オープンした。

 

ペナン島の「E&Oホテル」も次男ティグランの手になる。1885年に開業したこのホテルは、当時、「スエズ以東で最高のホテル」という歌い文句で宣伝していたという。こちらも「ラッフルズ」と同様に1997年に全館閉鎖し、4年の歳月をかけて再オープンした。

 

ヤンゴンの「ザ・ストランド」は、3男アヴィエットが手がけた。当初はアヴィエットが経営にあたったが、次男とは違い、無能で放蕩三昧だったため、このホテルを訪れることはほとんどなかったという。

 

アヴィエット引退後は4男のアーシャクが経営を引き継いだが、彼はペナン島の「E&Oホテル」の経営に追われていたため、なかなかラングーン(当時。現在のヤンゴン)に来られず、このホテルの経営は散漫だったという。ちなみに、長男のマーティンはすでにゴム農園経営で成功を納めていたため、資金提供にとどまり、「ラッフルズ」開業の数年後にイランへ帰国したので、ホテル事業とは無縁だった。

 

しかし、約1世紀を経る間に、「ザ・ストランド」は徐々に荒廃していった。それを見かねた伝説のホテルマンであるAゼッカが、今から14年前の1993年に最初のリノベージョンを行なった。

「ザ・ストランド」の開業当初は、イギリスのエドワード王子のほか、作家のジョージ・オーウェル(1903-1950)、サマセット・モーム(1874-1965)、ラドヤード・キップリング(1865-1936)らの著名人が常宿にしたことから、このホテルはアジア有数の格式と名声を得ていった。

 

1922年から英軍下のインド治安警察に勤務したジョージ・オーウェルは、5年間でマンダレーなどビルマ(現・ミャンマー)国内各地に配属されたが、帝国主義の片棒を担ぐ仕事を激しく嫌うようになっていた。そして、1927年に休暇でイギリスに帰国し辞表を出すと、2度とビルマには戻らなかったという。

 

1919年に『月と六ペンス』で脚光を浴び、世界的な人気作家になったサマセット・モームは翌年から世界各地へ船旅に出て、アジアで多くの短編小説を残した。そして、シンガポールの「ラッフルズ」に魅せられ、「ラッフルズ、その名は東洋の神秘に彩られている」と絶賛し、長期滞在した。シンガポール地下鉄MRTの「サマセット駅」は彼にちなんだものだ。

 

イギリスの植民地だったきゃんまーのヤンゴンにはヴィクトリア風の建築物が街中に残っている。

この間に訪れたラングーンの「ザ・ストランド」やタイのバンコクにある「オリエンタル・ホテル」も同様に高く評価した。後者にはモームの名を冠したスイート・ルームもある。

 

キップリングはイギリスの小説家・詩人で、イギリス統治下のインドを舞台にした作品、児童文学で知られている。19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスで最も人気のある作家の一人だった。代表作として『ジャングル・ブック』『少年キム』『マンダレー』などがある。特に児童向け作品は古典として今でも愛されている。1907年には41歳で史上最年少のノーベル文学賞受賞者となった。このころからモームと同様に世界各地を旅し、当時のラングーンを何度も訪れ、その都度「ザ・ストランド」を常宿にしたという。「東は東、西は西」(East is East,West is West)という名句を残し、日本にも2度ほど行き、日本の研究資料も残している。

 

世界的ホテル組織から認定されたミャンマー国内唯一のホテル

ヤンゴンの「ザ・ストランド」の名声を上げたもうひとつの理由は、このホテルがミャンマーで唯一の「The Leading Hotels of the World」(LHW)のメンバーになったことも抜きにはできない。5つ星ホテルやリゾートなどを中心に世界約80か国、420を超すホテルで構成されるLHWへ加盟するには誠に厳しい審査がある。サービス、設備、経営、レストランなど、すべてにおいて高水準をみたすホスピタリティーが要求される。

 

たとえば、ホテルから加盟申請が出された場合、LHWの執行委員会がその内容を十分に吟味し、特に優れたホテルと判断されれば、インスペクション・チームが派遣され、細部にわたってチェック、確認が行われる。しかも晴れて加盟ホテルとなっても、定期的に審査が継続される。日本では帝国ホテル、ホテル・オークラ、パレス・ホテルの3軒が加盟。お隣のタイではプーケットの「The NaiHarn」、バンコクの

 

「The Okura Prestige Bangkok」など5軒が認定されている。ちなみに、発祥地のヨーロッパでは観光国スイスの36軒を筆頭に、イタリア、フランスが各20軒強と続く。

 

LHW加盟ホテルではないが、ロンドンのストランドにも「Strand Palace Hotel」という4つ星のホテルが現存する。部屋はやや狭いとの評が多いが、ホスピタリティーの高さはさすがイギリスのホテルの伝統と格式を受け継いでいるという。

 

しかし、LHW加盟ホテルはどうしても格式や品格が重視され、この堅苦しさを嫌うゲストがいることも事実だ。そのため、20世紀後半からその地域の自然や地形を取り入れ、シンプルだが、プライバシーを重視した大人の隠れ家的なリゾートが密かに人気を得ている。

 

一例を挙げれば、フィリピンのパラワン島北西部にあるパマリカン島という小さなり動全体をホテルリゾートにした「アマンプロ」である。

 

マニラから専用小型ジェット機で約40分。周囲2キロ四方の島全体がリゾートで、飛行機のタラップを降りると、ポーターたちが電動カートで待ち構えている。そして、島内に点在するコテージ風の「カシータ」にそのまま案内される。

 

島の中央にレセプション、レストラン、プールなどの施設が集められているが、ゲストはカシータ内でチェックインを済ませれば、あとはチェックアウト日まで全くのフリー。朝食時間、サンセット・クルーズなどが明記された施設利用案内ガイド帳があるのみ。用があれば、電話をすればいい。それ以外は、スタッフは一切来ない。島内の移動は各戸に備えられた電動カートを利用する。

 

しかし、カシータ内は広々としたジャグジー、大型TV、DVDプレーヤーなど、設備は5つ星に匹敵する豪華さだ。併設してバルコニーにはデッキチェアーガ常備され、目の前の白砂、紺碧のビーチを眺めながら、ルーム・サービスで食事をとることもできる。

 

後はゲスト個人が思いのままに過ごす、まさにプライバシーを最優先させた素晴らしいコンセプトのリゾートである。ただし、欧米人はこの手のスロー・ライフを楽しんでいるが、われわれ日本人はともすれば手持ち無沙汰になりがちなので、本やDVDの手助けが必要になるかもしれない。

 

 

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栗原富雄(くりはら・とみお)

月刊『Yangon Press』編集長兼CEO。元日本旅行作家協会会員。1949年、東京生まれ。高校を休学して2年間、ヨーロッパ、アジア、アメリアを放浪。1975年から1988年まえ、「ブルータス」「週刊宝石」の取材記者。1992年~2001年、月刊「SEVEN SEAS」、月刊「VACATION」編集長、月刊『MOKU』編集局長を歴任。その後、フリーランスを経て、2011年にミャンマーのヤンゴンへ。2013年4月、日本語フルーペーパーの「Yangon Press」を創刊。2014年9月、ミャンマー語版を創刊。VIP取材には、ダライ・ラマ14、ゴルバチョフ元ソ連大統領、デビッド・ロックフェラー、アウンサン・スーチー他。著書に『あの助っ人外人たちは今』(実業之日本社)、『Yangon Pressで読み取る現実と真実』(人間の科学新社)などがある。

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