東南アジア各国で新たな挑戦を続ける日本人

中国人に追いつけ追い越せ!

東南アジア各国で新たな挑戦を続ける日本人

アジアに魅せられ、アジアで起業した日本人は多いが、今回ご紹介する江口二郎さん(1946年生まれ)もアジアに深くハマッたユニークな人生を送っている。

江口さんは35歳の時に初めての外国であるシンガポールに来て活動を開始、72歳になった現在でも独りでアジア各地を飛び回っている。さまざまなアジアビジネスを手掛けているがなかでも、マレーシア、タイ、ベトナムでは、大田区や東大阪などの町工場にいるような技能工が不可欠なモノづくり(機械製造)を各国の若手を育てながら取り組んでいる。

2011年の年初、マレーシアのペナンで取材していた筆者は、現地の日本人会で「(ペナンで)機械を作って活躍している若手の日本人がいる」と聞いて取材に行ったのが現在親しくしてもらっている江口二郎さんの長男にあたる江口格司氏で、同氏から「親父はシンガポールでビジネスを展開している」と聞かされていた。

ペナンからバンコクに戻ってしばらくした頃、タイにも工場を構えた江口二郎さんと、バンコクで定期的に開催されている日本の中小企業の集まりで出会い、同年代ということもあってすぐに親しくなったが、中国に対する見方などで意気投合している。

 

30代後半からシンガポールで働く

2018年3月末、江口さんとベトナムのホーチミンで待ち合わせて、ホーチミンとハノイにある江口さんのベトナム工場を初めて取材させてもらったので、筆者は江口さんが経営するマレーシア、タイ、ベトナムの工場を見学したことになる。

江口二郎さんは三重県四日市の出身。天理高校から天理大学に進み、ドイツ語を専攻したが、大学を1年間休学して鹿島建設のダム建設の現場で働いたこともある。大学を卒業後は高校の恩師の紹介で大阪の電線・電材問屋に入社、札幌支店、東京支店、千葉県の銚子支店などに勤務した。その後、地元の四日市に戻って兄弟で有限会社江口土建を設立して建物の基礎工事を受注し自ら現場で働いた。江口二郎社長は一卵性双生児だ。

35歳の時、急に海外で仕事をしたいと考えるようになった江口さんは再び高校の恩師に相談したところ、シンガポールの南洋大学を卒業してシンガポールのUOB銀行に就職が決まり、神戸大学の大学院生として来日していたシンガポール人であるテン氏を紹介してくれた。そこで彼を頼りにシンガポールに行く決心を固めた。

当時の江口さんはシンガポールがどこにあるかもよく知らないほどだったが、航空券を買ってシンガポールに向かった。出発前には奥さんと3人の子供を奥さんの父親にあずけた。そしてシンガポールで職を探しまわったのだが、当時の江口さんの英語力は乏しく、大学で専攻したドイツ語が使える仕事も見つからず、現地採用の仕事はなさそうだった。そこで江口さんはシンガポールのチャンギ国際空港の近くの海を見ながら考えこんだ末、日本に帰国する決断をした。奥さんの父親にこっそりこのことを相談したところ、「子供は預かっておくので日本に戻ったとは家族に告げずに東京で仕事をしておればよい」と言われた。しかしその直後、日本で知り合っていたテン氏が国際輸送会社であるOCSのシンガポール代理店の社長であるチャン氏を紹介してくれ、ようやく仕事が決まった。そして40歳までOCSで働いていたが、競争会社のDHLシンガポールからスカウトされた江口さんは移籍、その後、DHLジャパンに移って海外営業部員として働いた。日本をベースにしながら香港、中国、韓国、台湾、フィリピン、インド、スリランカで調査や営業を担当した。当時のDHLは中国に進出したばかりだったが、北京で仕事をして台湾に向かった数日後に天安門事件が発生した。江口さんはその後、DHLジャパンの名古屋支店長に就任している。

その頃、電子部品のICなどにUVインキを使ってマーキングするゴム印の仕事をしているボンマークという会社で社長をしていたシンガポールでの日本人の親友が悪性リンパ腫を患い、42歳の若さで亡くなった。当時45歳だった江口さんに対して「この会社の社長になってほしい」と同社の日本本社から請われたため、DHLを辞めてボンマークの社長を5年間務めた。ボンマークはパーツフィーダーのメーカーである㈱産機(名古屋市)の代理店もしており、顧客の日立セミコンダクターなどにパーツフィーダーも納入していた。これが江口さんにとって現在のメインビジネスであるパーツフィーダーとの出会いだった。

そして51歳の時、娘の名前である「みむろ」を社名につけた商社MIMLON ASIA(ミムロン・エーシア)をシンガポールで起業し、東南アジアを股にかけてさまざまな事業に取り組んできたが、これまでに製造も行なうメインのビジネスとなっているのが、コンデンサー、半導体などの電子部品やベアリング、小型モーター、機械式時計のムーブメントといった部品を供給するパーツフィーダー(システム)。パーツフィーダーの主要部である振動機とコントローラーは日本の産機から代理店として購入し、マレーシア、タイ、ベトナムで製造する機械上部のボウル部(部品を入れる容器)に組み込んで各社向け仕様にして東南アジア各国に供給している。

 

シンガポールを起点にして東南アジア各国で展開する

東南アジア各地で活躍する江口さんのミムロン・グループの原点はシンガポール。シンガポールの優位性について「英語と中国語が通じること、ビジネスの感性が研ぎ澄まされていること」だと江口さん。例えば「当社のような中小企業でも銀行から担保なしで借りることが可能。スタンダードチャーター銀行、UOB、MALAYAN銀行などから融資を受けてきました。インボイスの買い取り、輸出の際の消費税の還付などもすみやかに完璧になされ、シンガポール政府にも信頼性があります」と江口さん。

シンガポールでは産機のパーツフィーダー振動機などの輸入から始めた。そして埼玉県所沢でテーピングマシンを製造しているバンガードと知り合い、その子会社であるワールド・フュージョン(World Fusion)というシンガポール法人を譲り受けて、同社のテーピングマシンの販売も開始した。テーピングマシンは電子部品をプリンター基板に組み込むマウンターという機械のために部品をエンボステープに挿入してテープ状にする機械で、中国がメイン市場となっている。

1999年7月、マレーシアのペナンに江口さんが100%を出資するパーツフィーダーを製造するMIMLON SANKIを創業した。初の工場進出先として、最初は自動車産業が大きなタイ進出を検討したが、当時のタイはエイズ流行といった問題があり、マレーシア北部のペナンに着目した。ペナンは「東洋のシリコンバレー」と呼ばれ、シンガポールのMIMLON ASIAの顧客も進出する前からいた。

このペナン工場は江口二郎社長の長男で1972年生まれの江口格司(えぐち・かくし)氏に最初から現在まで経営を任せている。MIMLON SANKIでは特注の自動機なども製造しているが、同社で製造できない機械や電子部品を扱う商社MIMLONマレーシアも社内に設立した。

このマレーシア工場はペナン州にあるが、ペナン島ではなく、ペナン島の対岸(マレー半島側)のBandar Perdaのローカルの製造業が集る一角にある。格司さんは新潟大学工学部機械システム工学科に6年間(1990年~1996年)属した末に中退している。大学生時代から「日本が下落傾向になる」と感じた格司さんはいつか海外で起業したいと漠然と考えていたという。そして格司さんは大学を中退して、産機に就職して3年間働いてからマレーシアに向かった。「ボウル」と呼ぶパーツフィーダーの上半分を生産し、産機の振動機とコントローラーを組み込んでパーツフィーダーとして完成させ、タイ、ベトナムにも供給している。最近ではこのマレーシア工場でインドからの引き合いを受け、納入した

シンガポールでのビジネスを安定化させていた江口さんは、シンガポールのビジネスや会社の運営は育てたシンガポール人の4人に任せた。中でも江口さんのパートナーでもある基板がわかる技術系の女性を中心にシンガポール事業を進めてもらっている。

そして2006年にはペナンで生産するパーツフィーダーの半数が売れているタイに進出した。バンコク郊外のパトゥムタニ県にMIMLON SANKIタイランドを江口社長が66%、産機が34%の出資で設立した。これまでにタイ製のパーツフィーダーとしては月10~15台を生産できる体制になっている。

シンガポールのゴルフ仲間から切削油の販売をタイに広げたいと要望された江口さんは、すでに2000年にタイにJAC21という会社を設立していた。そこでタイの経営環境はかなり知っているはずの江口さんだったが、その後、タイで自ら製造業を立ち上げる中でタイ人の技術系社員を採用することが難しいことが最大の悩みだったが、「これまでになんとか6人ほどのタイ人技能者を育てることができた」という。マレーシアのペナンは華人の街であり、優秀なエンジニアも多いが、採用してもすぐに独立して辞めていく人ばかりで、雇用してタイに連れてくるのは経営リスクが高い。そこで江口さんはパーツフィーダー製造の研修でタイ人3人を「ペナン工場に送って研修させてみたが、タイに戻ってくると3人の内の2人が退職してしまった」と江口氏は嘆く。幸い、タイでは大手のパーツフィーダーメーカーにいた日本人の技術系ベテランのOBが同社に入社して生産を指導している。

有能な人材を確保するのが難しいベトナム

これまでにマレーシアとタイでそれぞれ20人ほどの従業員を抱えているが、ベトナムにも10年ほど前に進出し、ホーチミンとハノイにミニ工場を作った。ベトナムでの生産の立ち上げ当初、ハイフォンで趣味の海釣りをしている時に、偶然にもキヤノンのトップと知り合ったり、ホーチミンではマブチモーターといった大手の顧客に運良く巡り合えてパーツフィーダーが納入できるようになった。これまでにパーツフィーダーを月5台はハノイで生産できる体制も構築したが、納入前の調整のために全機をタイ工場に送り返していることが悩み。「能力ある人材をどうやって集めるかがベトナムでも最大の課題です」と江口さん。ホーチミンはサービスセンターの位置づけで、マレーシアやタイで製造した機械の輸入販売後の設置やメンテナンスが中心。江口さんは「ベトナムの金利が8%近い高さにあるため、支払いを延ばしたり、払わないという顧客も出るかもしれないと懸念しながらビジネスを始めている。そこで支払いで安心感がある日系工場をメインの顧客とし、今後5年でタイと同規模にしたい」ことが現在の目標だ。

ベトナムについて江口さんは「緩やかな社会と評されるタイに比べて、ベトナムの郷土愛、親子関係の絆(きずな)は強い」と見る。年を通じてベトナムで最大の休暇であるテト(旧正月)で田舎に一時帰省した従業員が実家で引き止められてテト明けに工場などの職場に戻ってこない従業員が毎年各工場で続出している。ベトナム人の多くは中国系ではあるが、華僑が多いタイに比べ、ベトナムは華僑を国外に追い出してしまった歴史がビジネスに大きな影響を与えている。

「ベトナムはビジネスを離れれば楽しい魅力的な国。しかし街には仕事をせずにスマホゲームなどにうつつを抜かしたりしている若者であふれている。会社で働いた経験がある親が少ないベトナムでは子供に会社という職場について教えることができない。とりわけ英語とコンピュータソフトが扱える人が少なく、優秀な大卒者のほとんどが大企業やITを駆使するデザイン会社などに高給で就職するため、当社のような中小企業にとってCAD(コンピュータ支援設計)の図面が読め、英語で納品書が書け、消費税や貿易業務がわかる人の採用がきわめて難しい」と江口さん。

パーツフィーダーの「ボウル」部を職人技の手作業でこなせる人もいないから独自に育成する必要がある。そこで、ある程度の職人技の従業員が育っているタイ工場に「これまでに10人のベトナム人従業員を送って研修させたが、内9人がすでに退社してしまった」と江口さんは嘆く。「ビジネスの進めやすさで言えば、断然、タイ」と江口さんは断言した。

「当社製を含めてパーツフィーダーはどうしても部品やパーツの詰まりが発生してしまう。メンテナンスを至急に行なうには企業の近くにサービスセンターを構えていることが顧客に安心感を与える」と江口さん。そこでフィリピンやYKKなど古くからの顧客もいるインドネシアでのサービス拡充を図っており、将来の現地生産も視野に入れている。

中国製品に負け始めてきた日本ブランド

サラリーマン時代の江口さんは、シンガポールや日本を起点にして香港、中国、韓国、台湾、フィリピン、インド、スリランカで調査や営業を担当するなかで中国人ビジネスマンとの付き合いが増えていった。そして華僑によるビジネスのパワーを各地で見せつけられ、華僑と中国人のパワーに惹かれた。華僑が日本の各メーカーの代理店となって日本製品をアジア各地で売りまくり、メーカー以上に儲けているケースが多いことを見るにつけ、江口さんも日本の有名メーカーの代理店としての事業をやりたいと考えていた。

2017年6月、筆者はバンコクのBITEC(バンコク国際貿易展示場)で開催された「マニュファクチュアリングEXPO」という製造業向け見本市の会場を歩き回っていた。その時は近年、見違えるように変わったタイの国際展示会での中国企業の様子を中心に取材していた。その会場で突然、私の名を大声で呼ぶ人がいた。振り向くと、なんと久しぶりの江口さんだった。江口さんは自社のパーツフィーダーでも使用することが多い中国の南京CUHサイエンス&テクノロジー社のパーツフィーダー用コントローラーを紹介するブースでタイ人や中国人の訪問者の応対を手伝っていた。聞けば江口さんはこの中国企業の代理店もしており、最近もこのコントローラー百台のマレーシア企業向け商談をまとめたという。

江口さんは「中国製品は日本製の同じモノに比べ数分の1の価格のものが多い。確かにかつての中国製品は安かろう悪かろうがほとんどだったが、その後の中国企業は各社の努力で品質を向上させ、ここにきて合弁を含む日本製品に比較しても負けていないレベルの機械部品などの製品が増えている。しかも日本製に比べて極端に安いから今後の日本企業の中国との競争は厳しくなるばかり」と見ている。

江口さんは、この展示ブースにいた南京CUHサイエンス&テクノロジー社の若手営業マネージャーである南京市出身のビンセント・レイ氏を紹介してくれた。社長もブースにいるようだったが英語ができないため、中国語ができない私はビンセント・レイ氏と英語で話した。

同氏はまず「パーツフィーダー機に組み込まれるコントローラーで当社は中国最大のメーカーです」と自社を説明した。「これまでに顧客がいるインドネシア、シンガポール、ベトナムの産業展に出展してきましたが、今回はタイに初出展した」というビンセント・レイ氏と2人だけでかなり長時間、同社のブースで立ち話をした。同氏によると、「製品の高品質に自信があり、3年間の無償保証を付けている。我々の部品や回路などでの故障に留まらず顧客側で壊した場合であってもほとんどの場合は無償で修理します。もしも直せなければ全体を新品に取り換えています」という。あとで江口さんにも確かめたが、「故障した場合は中国に送り返しているが、これまですべて無償で修理してもらっている」と語った。顧客のクレームには丁寧に対応し、故障原因を徹底分析し品質向上に役立てているという同氏の説明に私が感動したのにはわけがある。

その頃、私がバンコクで買って愛用していたソニーのスマホが故障し、バンコクのBTS(高架鉄道)プロンポン駅前のビルにあるソニーのサービスセンターに保証期間内の修理として持ち込んでいたが、預けてから1か月が過ぎても直せないだけでなく、タイ人店員の態度もきわめて悪いことに腹を立てていたからだ。私はソニー製品を小さい頃から愛用してきたし、昔は「ウオークマン」も何台買ったかわからないほどだが、今回のスマホの度重なる故障はバンコクに住む日本人の友人数人もほぼ同時期に、画面が暴走する障害でソニーのスマホを捨てており、私も「明らかな欠陥商品を堂々と売るソニー製品は金輪際買うまい」と決心したばかりだった。中国の中小企業の品質改善のマネージャーであるビンセント・レイ氏の説明をソニーの幹部に聞かせたいと思った。

東南アジアに生産シフトする中国企業を追いかける

日頃はアジア各地でモノづくりの現場を取材することをメインにしている私はバンコクで開催される各種の国際産業見本市に出かける機会が多い。近年感じるのは、どの見本市でも中国企業の出展が増え続けているだけでなく、かつて無気力に見えた会場の中国人が元気になってきている点。同じ見本市会場内なのに「中国パビリオン」があちこちに設定され、これでもかといったほどに中国の存在が増えている。以前から多数の中国企業が出展していていたが、かつては明らかにローテク企業の出展が目立ち、中国企業の出展ブースを訪問する客もほとんどなく、各ブースの中国人は手持ち無沙汰だった。そんな会場風景がこのところ激変している。

かつて私の飛び込み取材を冷たくあしらう中国企業が多かったが、最近ではどの中国企業も私の取材を歓迎、熱心に説明してくれるようになったことも大きな変化。同じ見本市に出展している日本企業では顧客の訪問をただ待っているが、中国企業では顧客のブース訪問が少ないと、中国から派遣されている若い中国女性が自分のブースを離れて自主的に会場を歩き回ってチラシなどを配っている風景をあちこちで見かけるようになったことからも近年の中国の変化とやる気を感じさせられている。

人件費などのコストアップから世界の工場としての中国の魅力が減り、チャイナプラスワンとしてアジアの他国に生産シフトする動きをしているのは外資に限らず、中国の大企業や中小企業も同じ。アジア各地に工場進出し、国内市場での伸び悩みを未開拓だったタイなど東南アジアで広げたいとして動き始めた。この動きに乗ろうと考えた江口さんは最近、タイ工場で中国語と英語に堪能な日本人を採用、パーツフィーダーの販売で台湾を含む中国語市場でのビジネスの拡販に取り組み始めた。

シンガポールのMIMLON ASIAをメインとする東南アジアの江口さんのミムロン・グループでは現在の日本人は社長の江口さんを含めて6人。シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムに事務所があり、英語、中国語、タイ語、マレー語、インドネシア語、ベトナム語に対応できる。 70代の江口さんの東南アジア各国での新たな挑戦に注目している。

 

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松田健(まつだ・けん)

アジアジャーナリスト。元日刊工業新聞記者。主な著作には、『タイで勝つ!! 直感力こそ成功のカギ』(重化学工業通信社)、『今こそフィリピンビジネス─アジア投資の穴場』(カナリア書房)、『魅惑のミャンマー投資』(カナリア書房)などがある。

 

 

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