LCCが世界の空を制覇する

欧米よりも進んでいる東南アジア

 

LCC(ロー・コスト・キャリア)は1960年代にアメリカで生まれた。東南アジアのLCCは、その後だいぶ遅れて、2000年前後に誕生している。が、東南アジアのLCCは現在欧米に生まれた状況を完全に飛び越えてしまったようだ。東南アジアのLCCは世界のトップを走っている―その現状を考察する。

 

LCCがとんでないことに戸惑う

今年の7月、カナダのトロントにいた。そこからシカゴに行くことになっていた。トロントからシカゴはそう遠くない。西に飛び、ミシガン湖を超えればシカゴだ。飛行時間は1時間ほどだろうか。

 

当然LCC(ロー・コスト・キャリア)があると思っていた。トロントとシカゴはともに人口は多い。アジアの感覚からすると、レガシー・キャリア(既存の大手航空会社)とLCCが競合する路線でもある。ビジネスマンはレガシー・キャリアを使い、観光客や地元の人、若者はLCC。きちんと住み分けもできるような気がした。シンガポールからクアラルンプールに飛ぶような感覚だろうか。

 

トロントの宿でネットをつなぎ航空券を探した。一般的な検索サイトを調べてみる。

 

LCCがない……。

 

表示されるのは、ユナイテッド・エクスプレス、エア・カナダ、アメリアカン航空といったレガシー・キャリアばかりなのだ。

一般的な検索サイトではLCCが表示されないことがたまにある。そこでアメリカとカナダのLCCのサイトで調べてみた。6社ほどがあったが、どのサイトからも、トロントとシカゴを結ぶ路線は出てこなかった。

 

時期の問題もあったのかもしれないが、この路線にはLCCが入りこめないでいるようだった。レガシー・キャリアが独占している路線なのだろうか。

 

しかたなくユナイテッド・エクスプレスの便にした。一番安かったからだ。それでも片道3万9160円おした。かなり高い。各社の運賃も横並びだった。

小さな飛行機だった。40人ほどでいっぱいになる小型機。機内の案内にはEMBI45と書かれていた。調べるとエンブラエルというブラジルのメーカーがつくった飛行機だった。

 

通路を挟んで1席2席。体重のバランスが悪いのか、移動させられる乗客がいた。

 

シカゴにはあっという間に着いたが、どこか10年遅れた世界に映ってしかたなかった。

 

航空業界のシェアを拡大するLCC

LCCはアメリカで生まれた。1967年に創設されたサウスウエスト航空がその最初と言われる。サウスウエスト航空の発想は、「安い運賃と定時運航を守る多面に、サービスを最低限にする」というものだった。つまりサービスを省いて、それを運賃から差し引いていく……というLCCの原点がそこにあったわけだ。

 

とにかく安かったようだ。奥空業界では話題になったが、サウスウエスト航空は、アメリカ南部のダラス、ヒューストン、サンアントニオを結ぶ小さな航空会社にすぎなかった。レガシー・キャリアにしたら、脅威ではなかったのだ。

 

それから50年LCCが世界の航空業界の50%のシェアを占めるまでになるとは誰も想像していなかった。

 

しかしその50年は、欧米の航空業界を見る限り、平坦な道のりではなかった。政府が打ち出す規制緩和と、レガシー・キャリアの狭間で、一進一退を繰り返しながら広まってった業界だと思っていい。

 

サウスウエスト航空が生んだスタイルを取り入れ、レガシー・キャリア路線に参入する航空会社が現れるようになる。規制緩和が追い風にもなった。どの会社も狙いは大西洋路線だった。ヨーロッパとアメリカを結ぶ路線だった。ドル箱路線だったのだ。

 

よく引き合いに出される航空会社にレイカー航空がある。ニューヨークとロンドンの間を、片道3万円という、同時では破格の運賃を引っ提げて参入するのだ。その便はスカイトレインと名づけられた。

 

この動きに対してレガシー・キャリアは、団結して、レイカー航空つぶしにかかっていく。レイカー航空が飛ぶ時間帯に、あえて便をつくり、運賃も同一か、ときにレイカー航空より安く設定したのだった。資金力では圧倒的に強いレガシー・キャリアの攻勢に晒されるのだ。

 

事故もレイカー航空の足を引っ張った。アメリカン航空が墜落事故を起こすのだが、その機材がダグラス社のDC-10だった。原因が究明されるまで、この機材が使用禁止になる。レイカー航空はこの飛行機を多く保有していた。結局、レイカー航空は倒産に追い込まれてしまう。

 

当時の人気LCCだったエア・フロリダも事故で倒産に追い込まれていく。ワシントンを出発したエア・フロリダ90便は、離陸食後に失速。ポトマック川に墜落した。78人が死亡することになるのだが、その救出現場の様子はテレビを通じて全米に流れた。人々の目に映った光景は、「LCCは危ない」というものだった。いまでも、「LCCは安全なの?」という不安を抱く人はいる。そのイメージを植え付けたのは、エア・フロリダでは……という人もいる。エア・フロリダはその2年後に倒産している。

 

IT企業としてのLCC

これからしばらく、LCCは停滞期に入っていく。レガシー・キャリアのような資金力がないLCCにとって、事故は致命的だったのだ。

 

LCCが欧米で息を吹き返すのは1990年に入ってからだった。理由はインターネットの普及だった。パソコンはしだいに値段を下げ、一般家庭にも浸透していくようになる。そしてパソコンはインターネットとつながっていった。インターネットは進化し、単なる情報ツールから、決済機能を兼ね備得ていく。

 

LCCの安い運賃を導くカラクリのひとつに、旅行会社を使わず、販売典を持たないことがある。乗客と航空会社を直接つないだわけだ。それによって経費は少なくなり、運賃に反映していく。実際、それまでは、航空券の販売は、問屋、販売店、そして利用者という、旧態依然とした販売経済の中に置かれていた。当然、途中で手数料がとられていく。

 

それはどの業界でも起きているのだった。インターネットというツールは流通を革命的に変えていった。LCCもその流れに乗ったわけだ。

 

その過程でLCCも変質していく。航空会社はものを売るわけではない。飛行機の座席を売る。その意味で、よりインターネットに特化することができた。

 

「LCCは航空会社ではない。IT企業だ」

 

という人が居るが、それは一面、正しい評価に映る。

 

この状況のなかでLCCは一気に広まっていくわけだ。1990年代、欧米の空を飛ぶLCCは増えていく。レガシー・キャリアのなかにも、そのノウハウをとり入れるところが出てきた。

 

レガシー・キャリアが持つ既得権益を奪い取る

LCCは2000年前後に、東南アジアに飛び火する。1996年にフィリピンでセブ・パシフィック航空が生まれる。2000年にインドネシアのライオンエアー、2001年にはマレーシアでエアアジアが誕生した。

エアアジアをつくったのは、トニー・フェルナンデスというインド系のマレーシア人である。傾きかけていた航空会社だったエアアジアを1リンギット、当時のレートで35円で買った話は有名だ。彼は若い頃、ヨーロッパで動いていた。目の当たりにしたLCCをアジアに導いたわけだ。

マレーシアはマレー人、中国系、インド系に分かれた国家だ。マレー人はプミプトラ政策というマレー人優遇に守られていた。実質経済は中国系が握っている。そのなかでインド系は人口も少なく、存在感は強くない。しかし、LCCという新しい航空会社はインターネットに支えられている。エアアジアをインド系マレーシア人が担っていくのは必然だったのかもしれない。

 

しかしアジアのそらは、欧米ほど規制緩和が進んでいなかった。欧米はオープンスカイという自由化のなかでLCCはシェアを伸ばしていったが、東南アジアにはそれに相当するものがなかった。

 

しかしエアアジアを後押ししたのは、マレーシアの首相のマハティールだった。彼はアセアンのなかでの自由貿易圏構想の旗振り役でもあった。AFTAと呼ばれるものだ。そのなかでエアアジアは空路を広げていくことになる。

 

それに刺激され、東南アジアでは次々にLCCが生まれていく。シンガポールではタイガーエアウェイズ、タイではエアアジアが当時の首相、タクシンとてを組んでタイ・エアアジアが誕生。反タクシン派のタイ国際航空はノックエアというLCCをつくった。

 

これを馬跳び型発展というのだろか。馬跳び型発展というのは、ある段階を経験せずに、気にその次の世代のものが広まっていくことをいう。

 

たとえば固定電話がまだ十分に普及していないレベルの国で、携帯電話が一気に普及するようなケースだ。固定電話の分野を馬跳びのように飛び越えてしまうのである。

 

LCCの分野に馬飛び型発展を当てはめてみる。東南アジアがレガシー・キャリアを経験せずにLCCになったわけではない。東南アジアの飛び越えたのは、規制とレガシー・キャリアが持っていた既得権だった。

 

冒頭でトロントからシカゴまでの飛行機について紹介している。そこで、10年遅れの世界のように映ったと記している。それは僕が頻繁に東南アジアのLCCに乗っているからだろう。東南アジアに比べて10年遅れている気がする。同じ感覚を日本でLCCに乗るときも味わう。いま、東南アジアのLCCは、世界のトップを走っているように思う。東南アジアのLCCは、欧米に生まれた状況を飛び越えてしまっている。

 

10年は遅れている日本の空港

先日、日本に行ってきたタイ人にあった。数人の仲間と東京に行ってきたという。バンコクから沖縄の那覇経由だった。バンコクと那覇の間には、日本のLCCであるビーチ・アビエーションが就航している。そのキャンベーン運賃を使ったようだった。日本旅行は楽しかったようだが、最後の那覇空港への不満が口をついて出た。

 

「あの空港はなんですか。まるで倉庫。最後にお土産を買うつもりだったのに、ほとんど店がない。それが分かっていたら、東京で買ったんだけど」

 

タイ人旅行者はなぜか最後の空港でたくさんの土産を買う。免税品というわけではない。菓子類が多い。10箱以上買うタイ人も少なくない。那覇の空港にはそんな店がなかったのだ。

 

那覇空港は国内線ターミナルと国際線ターミナルのほかに、LCCターミナルがある。全日空の倉庫を改装したもので、いまは全日空資本のLCCであるビーチ・アビエーションとバニラエアが使っている。便数も多くなく、店舗も数える程しかない。

 

僕も何回かこのターミナルを使っているが、飛行機から歩いてターミナルに向かいながら、「やはり10年遅れている」と呟かざるをえない。

 

たしかにLCCが東南アジアに飛び始めた頃、LCC専用ターミナルがあった。マレーシアの首都クアラルンプールのLCCT(ローコスト・キャリア・ターミナル)やシンガポールのチャンギ空港にあったバジェット・ターミナルである。LCCが就航し始めた頃、経費を節減するために、乗客を飛行機まで歩かせる……ということでずいぶん話題になった。日本からもさまざまな業種の人たちが体験視察に出かけた。IT企業の社員が多かったとも言われる。

 

いまにして思えば、飛行機まで歩かせることは、ある種のパフォーマンスだった。LCCを印象づける効果があった。

 

その流れを真に受けてしまったのが日本ということだろうか。那覇のLCC専用ターミナルに次いで、関西空港、そして成田空港の第3ターミナルというLCC専用ターミナルが誕生し、いまも使っている。

 

日本のLCC専用ターミナルが誕生したのは2012年’から2016年にかけてだが、実は2012年にはシンガポールのバジェット・ターミナル、2014年にはマレーシアのLCCTが閉鎖されている。代わりのターミナルがつくられたが、そこは搭乗するとき、ボーディング・ブリッジを使う。それより大きなことは、シンガポールの新ターミナルが、LCC専用ではないことだ。LCCが多くなるだろうが、レガシー・キャリアも利用する。それはあじあの大空港に見られる傾向で、香港もLCCとレガシー・キャリアを混在させている。おそらく、このほうが効率がいいことがわかってきたのだ。

 

東南アジアのLCCの環境はこういう進化を遂げている時期に、日本ではLCC専用ターミナルの運用がはじまる。やはり10年の遅れを実感してしまうのだ。

 

東南アジアとの差がますます広がる日本の航空業界

そもそもLCCの日本乗り入れは東南アジアに比べて10年ほど遅れた。しかしそれも、海外のセブ?バシフィック航空やジェットスターが日本に乗り入れたに過ぎない。日本では2010年をLCC元年と呼ぶが、あまりに遅い元年だった。

 

日本国内線にLCCが飛びはじめるのは2012年である。もっとも1998年にはスカイマークが運航を開始している。このすかいまーくは評価が分かれる航空会社で、専門家によってはLCCに含めない人もいる。

 

しかし国内線LCCはなかなかうまくいっていない。その象徴が、全日空とエアアジアがつくったエアアジア・ジャパンだった。2012年に国内線の就航をはじめたのだが、ほぼ1年後には合弁を解消している。

 

そこにはさまざまな問題があった。東南アジアで成功したエアアジアは、そのシステムをそのまま日本に持ち込もうとした。そこに無理があったという人もいる。しかしそれ以上に、日本のそらにはさまざまな制約があった。

 

結局、エアアジア・ジャパンは全日空の完全子会社であるパニラエアに引き継がれる。その結果、日本のLCCは、全日空のビーチ・アビエーションとパニラエア、そしての日本航空のジェットスター・ジャパンに落ち着いてしまう。世界の例を見ても、レガシー・キャリアの別プランドLCCはあまりうまくいってない。独立系LCCに勢いがあるのだ。

 

その間にも東南アジアでは次々に新しいLCCが就航をはじめている。その競争は激しい。LCCはサービスを省略することで安い運賃を導いていった。しかし競争の激しさは、運賃を上げずにサービスを戻す傾向が生まれてきた。軽食を出し、預ける荷物も軽ければ無料にするLCCは多い。マレーシアのマリンドエアのように、機内食を出し、預け荷物は30キロまで無料、さらに座席にはシートテレビがついた機材を使うところも出てきた。こうなると、LCCとレガシー・キャリアの線引きが難しくなってしまう。しかし日本のLCCは旧態依然としたLCCである。

 

新しいLCCの参入で運賃はさらに下がってきている。タイをみると、タイ・エアアジアとノックエアという体制に、タイ?ライオンエアーが加わってきた。いま、タイ国内線の運賃を検索すると、タイ・ライオンエアーが最安値をつけることが多い。運賃競争は熾烈である。

 

東南アジアのレガシー・キャリアは、どこか国内線はLCCの領域とされてしまった感すらある。長距離国際線をレガシー・キャリアが受けもち、国内線はLCCという役割分担は、実質的な自由化の道を開いでいった。レガシー・キャリアの既得権という発想も薄い。

 

しかし日本の空の風通しは悪い。2014年、エアアジアは楽天、アルペンなどからの出資を得て、新生エアアジア・ジャパンを設立した。拠点は中部国際空港に置いた。しかしそれから3年、当初の就航予定をとっくに過ぎているが、いまだに日本の国内線への参入を果たせずにいる。途中、スカイマークのかつての経営陣を経営のトップに置くなどのテコ入れはしているが就航への手続きは遅々として進まない。

 

スカイマークは、日本航空と全日空が握る日本の空に、第三極をつくろうという意気込みでつくられた。しかし空港使用や整備などの、さまざまな面で冷遇されていく、なかなか日本のレガシー・キャリア2社体制に風穴を開けることはできず、全日空から資金援助に賴らざるを得なかった。エアドゥやソラシドエアはいまや全日空傘下になっている。

 

東南アジアの空とは自由度が違う。

 

東南アジアと日本の航空業界の差はますます広がってきている。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下川裕治(しもかわ・ゆうじ)

作家。元新聞記者。主な著作に、「本社はわかってくれない―東南アジア駐在員はつらいよ」(講談社現代新書)、「12万円で世界を歩く」(朝日文庫)、「パソコン探険」(双葉文庫)、「海外路上観察学 ぼくの地球歩きノート」(徳間書店)、「ホテルバンコクにようこそ」(双葉文庫)、「アジアの誘惑」(講談社文庫)、「アジアの弟子」(幻冬舎文庫)、「バンコク子連れ留学」(徳間文庫)、「アジアの居場所」(主婦の友社)、「新・バンコク探検」(双葉文庫)、「タイ語でタイ化」(双葉文庫)、「タイ語の本音」(双葉文庫)、「アジアの友人」(講談社文庫)、「バンコク迷走」(双葉文庫)、「「生きづらい日本人」を捨てる」(光文社新書)、「週末アジアでちょっと幸せ」(朝日文庫)、「週末バンコクでちょっと脱力」(朝日文庫)等がある。

返事を書く

Please enter your comment!
Please enter your name here