会社国家ニッポンの闇 ──ある派遣労働者の独白⑦

第7回 派遣には過去も未来もなく、現在だけがある

日本人で知らない者がいない大企業のサラリーマンを辞めた後に私が辿ってきた「負け組」人生を語る連載の第7回目──。ドコモのコールセンターを辞めて、タイで疲れを癒した後、再び日本で派遣の仕事に戻りました。今度はKDDIのオペレーター。会社は違えど、また同じ仕事……。生き残るためには仕事を選んでいる場合ではない。再び、電話を武器とする戦場に出撃しました。

派遣は日雇いよりマシなのか?

仕事は1か月契約だった。月末が近づくと、派遣会社の担当が職場に現れ、通路の隅で立ち話をして、引き続き働くかどうか打診された。更新の旨を伝えると、郵送で契約書が届き、記名捺印して送り返す。それを毎月繰り返す。日雇い派遣に比べたらマシだが、翌月がどうなるか分からない状況では、落ち着いて生活できない。それが身近なところで現実となる。

研修を担当し、そのままリーダーを務めていたSV(スーパーバイザー)が契約満了となった。寝耳に水だったらしい。SVと派遣会社の担当女性が話し込んでいる姿を2、3度目にしていた。SVは研修を担当した自分が、偽造審査部門のリーダーも任されると思い込んでいたらしい。課長が別の部署で就業できないか動いたようだが、SVの立場では引き取り手がなく、派遣会社への不満を置き土産に退職していった。5年も勤めながら、雇用保険にさえ加入していなかったらしい。それからほどなくして、今度は課長の異動が発表された。

最終日に課長は、「残念というよりも、悔しい気持ちのほうが強い」 と、言葉少なに挨拶し去って行った。

メンバーの人選からはじめ、他部署との調整、システム構築等地ならしを終え、ようやく軌道に乗ってきたときに他に追いやられる。いつでも馘の切れる1か月契約と合わせ、KDDIのやり方を目の当たりにした出来事だった。

 

仕事は退屈でやりがいもない

仕事ははじめこそバタついたところもあったが、すぐに慣れた。と同時に、毎日を退屈に思いはじめた。この職場には緊張感がない。20代前半の人間などは、仕事そっちのけで雑談に夢中になっている。派遣会社の女性が言っていたサークルの雰囲気という意味が分かった。SVに代わる人間を据えず、放置しているKDDIにもいい加減さを感じた。この頃からI田さんのスタンドプレイが目立ってくる。元々リーダーシップを取るのが好きなのだろう。彼はこれまでSVがしていた、その日の座席を決める作業を自分の仕事にし、自分より年下の人間にあれこれと指示を出すようになった。指示されたほうはおもしろいはずがなく、I田さんの陰口がほうぼうで囁かれはじめた。1日の集計が必要になり、その様式を話し合っていたときには、ダントツの最年長であるO川さんの意見を頭から否定し、怒ったO川さんが書類を机に叩きつけたこともあった。この状況は今後どうなっていくのだろう。じっくり観察してみよう。と思わないでもなかったが、筆者は退職の時期をうかがいはじめた。理由はいくつかあった。

 

辞めた仕返しに嫌がらせを受ける

ある日、派遣社員だけに「誓約書」が配られた。そこには「入退室カードをなくした場合には罰金10万円を払います」との文言があった。はじめは1万円を10万円に書き間違えたのだろうと思った。ところが、そうではないとわかり、無性に腹が立った。入退出カードはこちらが望んで持ち歩いているのではない。そうしたものに10万円という罰金を科す。罰金の額を高くすれば落とさないだろうとの考えなのだろうが、筆者には、派遣社員をどこまで馬鹿にするのか、と怒りしかなかった。

12月30日から1月3日までがシフトにあたってしまい、これまででもっとも味気ない年末年始を送ったこともこたえた。仕事帰りにスーパーに寄っても、棚の多くが年越し蕎麦、オードブル、お節料理に占領されて、いつも買う肉や魚が手に入らない。帰宅しても翌日に備えていつもどおり就寝するしかなく、除夜の鐘を聴くこともできない。元日も普通に起きて家を出る。道で初詣の人たちと擦れ違い、電車内では隣り合い、帰りにスーパーに寄っては正月料理ばかりの棚に閉口し、しかたなく缶詰や魚肉ソーセージをかごに入れる。

勤務時間が2パターンあり、12時半~21時半の勤務を3日続けた翌日から、10時~19時の勤務を2日やる変則シフトも疲労を蓄積させる。ハローワークから教えてもらっていた、1年以内であれば失業保険の手続きが再開されるという情報にも心を動かされた。いま辞めても失業手当がもらえる。筆者は次回の契約を更新しない旨を派遣会社に伝えた。

が、担当女性にとっては、リーダーにと考え、途中で時給も上げていた者の退職は許せないことだったようだ。社内システムの特記事項に「今後紹介不可」とでも入れたのだろう。良さなそう仕事を見つけて電話したりメールを送ったりしても、まったく相手にされないことが15年が経過する昨年まで続いた。

 

早くタイに行きたい

退職の翌日にハローワークに出向いた。就職したため受給できないでいた失業手当をもらうことができ、やっと口座残高に余裕ができた。もうひと踏ん張りすれば、またタイへ行くことができる。筆者はまた仕事を探しはじめた。

見つけたのはプラズマテレビの不具合対応だった。新聞広告や手紙などで、修理の必要を知った購入者からの電話を受ける仕事だった。期間は都合のいいことに、渡航に必要な資金が貯まる2か月間。服装がドコモと同じようにスーツということで億劫に思ったが、面接を受けると簡単に採用され、3月はじめから働くことが決まった。

目黒にあるパイオニアだった。研修が1日半ということに仕事のレベルが想像できた。研修は全員ではなく数人ずつが日を変えて集められ、その日は午後から筆者を含めて3人が参加した。時間になると研修担当の課長が現れ、研修資料を渡した。が、社員が呼びに来ると出て行ってしまい、戻ってこない。部屋が静かなことと暖房のせいで、30分もすると他の2人は居眠りをはじめた。さらに30分が過ぎ、筆者もさすがに手持無沙汰を感じたが、新聞も本も持ち合わせていない。

目をつむって時間をやり過ごしていると、ようやく現れた課長は、
「急な仕事が入ったので、今日の研修はここまでとします。終了の時間は17時までとして構いませんので」
と告げ、慌ただしく解散となった。

たまには楽勝な仕事もある

翌日の研修は終日が予定されていた。さすがに昨日のようなことはないだろう。会議室に入ると、40歳を超えたぐらいの女性がいる。今日はこの人と受けるらしい。会話もなく、社員の来るのを静かに待つ。9時を過ぎると昨日の課長が現れた。

「今日は実際にこのテレビを使ってやっていきます」

課長は会議室にあるテレビを指すと、昨日配布した資料を出すよう言った。課長はプラズマテレビの構造と今回の不具合の原因について説明し、電話がかかってきたときの受け答えについて話した。

「慣れないうちは、この表を見ながら対応してもらって構いませんので」

そこには、「電源が入る→映る→」、「電源が入る→映らない→」といったように、不具合の状態に応じた会話の進め方が書かれていて、オペレーターは表のとおりに会話を進めれば、聞き取りが完了できるようになっていた。午後からは筆者と女性とで、客役とオペレーター役を交代で務め応対の練習をした。客から聞き取った情報は紙に手書きで残す。ということは、コールセンターで一番厄介な画面操作については覚える必要がない。楽な仕事であることを確信した。その日も午後になると課長が忙しくなり、15時で終了となった。今日も得したと頬をゆるませながら目黒駅まで歩く。3月にしては暖かい日で、コートを脱いで手に持つ。帰るにはまだ早い。駅の周辺を歩いてみよう。目黒はかつて母と歩いた場所だった。

あのときはまだ大学生だった。引っ越しをしたので、母が大家への挨拶を兼ね、様子を見に上京してきた。その帰り際、母は昔暮らしていた寮が今どうなっているか知りたいと言った。母は昔ドレスメーカー学院で服飾を勉強していた。しかし、入学して1年が過ぎたときに父が他界し、帰郷を余儀なくされた。その母が少し歩いてみたいと言う。

「確かここのはずなんだけど、変わったんねえ」

寮のあったところにはラブホテルが建っていた。そのことに筆者は母の思い出が汚されたようで憤ったが、当の母は、

「さあ帰ろ」

と、気を悪くした様子もなく、駅に向かって歩き出すのだった。母はそれからほどなくして脳梗塞で倒れ、入院した。その後遺症がようやく癒えてきた頃、今度は胃がんが見つかり、手術をした。しかし、がんは治りきらず、1年もたたずに再入院した。死期を悟った母は病院のベッドで「馬鹿みたいだ」と言った。

「歳とってお金がないと惨めだわね」そう言って貯金に励んでいた自分を馬鹿みたいだと嗤った。筆者のサラリーマン7年目の夏に、母は55歳で亡くなった。

 

「金持ち喧嘩せず」というのは本当だ

さて、迎えた初日。9時を過ぎると電話が鳴りはじめる。用意された10本の回線で受け切れない場合は、隣の部署につながるようになっていて、回線がパンクして電話が鳴りっ放しになるようなことはない。それも午後になると落ち着き、待機している時間が増えてきた。朝礼のときに課長が、どれだけかかってくるか予想がつかないと心配していたが、まったくの杞憂だった。

翌日以降も午前中は忙しいが、午後からは時間を持てあますという状況が続いた。プラズマテレビのような高額なものを買う人は気持ちに余裕があるのか、怒る人は稀で、ほとんどの電話が簡単に終わる。これで時給がドコモのときと同じ1400円。短期間の仕事だが、楽して稼げるので気分が良かった。

座席は決められてなかったが、隣にはいつも22歳の男性K田さんが座った。すでに結婚していて、相手は10歳年上の中国人。居酒屋で働いていたときに知り合ったのだと言った。

暮らしぶりを訊いた。
「はじめの1か月くらいは共稼ぎだったんですけど、辞めてしまいまして。いまは私の稼ぎだけで生活してます」

家でテレビを見たり、中国人の友達と出かけたりして過ごしているのだと話す。携帯電話が好きで、新しいものが出るとすぐに買い替えるのだとも言う。
「私が節約のために白米だけの弁当で我慢しているのに、奥さんは使ってばかりいるんですよ」

笑顔で言いながら、新聞紙の包みからアルミの弁当箱を取り出し、おかずのない米だけの真っ白な中身を見せてくれた。

 


鳥屋野潟 エツ (とやのがた・えつ)

東京の有名私大を卒業後、大手保険会社に就職。30代はじめに退職する。以降、派遣社員でさまざまな仕事に就きながら、タイに通う。転職多数。ここ 数年は西南アジアに滞在することが多い。

 

 

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